電車に子供料金で乗ろうとしたら止められる程の背丈であっても、中身がそれに伴うとは限らない。
駅員に声を掛けられることに嫌気が差したから諦めて大人料金で乗ることにしたけれど、自分はまだ小学生なのだ。
それでも、あと1年もしないうちに中学に入学するわけなのだから、少しだけ早まったのだと思えば納得できるような気がしなくもない。本当は納得なんてしたくないけれど。

大人って、なんだろう。
電車に揺られながらふとそんな思考が頭をよぎる。
大人料金を払うようになれば大人なのだろうか。
けれどコーヒーは砂糖とミルク無しでは飲めないし、サンマの腸も苦くて食べる気になれない。
同級生の中では大人びている、と言われることは多いけれど、まだまだできることは少ない。
窓ガラスに映る、170を5センチも超えた身長の自分は、傍から見れば大人、なのだろうか。
はやく、大人になりたい。
電車はゆっくりと減速して、目的の駅へと停車した。

大人を構成する要素に見た目が含まれると思えない原因のひとつが、目の前にある。
身長は多めに見積もっても150センチ台で、くりくりとした大きめの瞳を輝かせながらパフェを頬張るその人はどう見ても子どもだ。
けれど彼女が携帯している住民基本台帳カード(免許代わりの身分証明書らしい)にはしっかり自分よりも一回り年上の生年月日が刻まれている。
彼女は彼女なりに外見で苦労しているらしく、やれ居酒屋では毎回年齢確認されるだの、やれ残業で帰りが遅くなったら補導されかけただの愚痴を聞かされたことがあった。

「で、多義くん最近はどうなのー」

まだ数分しか経っていないのに3分の1が消費されたパフェに刺さっていたウエハースを噛りながら彼女は切り出した。
数ヶ月前から続いている彼女との会合はもはや月に一度の定例行事となりつつある。
そもそも、親戚でもなんでもない赤の他人である彼女とどういう経緯で知り合ったのか。思い返せば、漫画みたいな話だ。
旧サッカー場で青砥の練習に付き合った後、家路を辿る最中に彼女がブレーキの壊れた自転車で突っ込んできた。
あまりにも盛大に、そして膝からはだらだらと血を流す彼女に驚くばかりで咄嗟に反応できなかったことが懐かしい。
見た目がだいぶ年下に見えたから、彼女が泣くのではないかと心配し、必死に大丈夫かと声を掛け、ひとまずコンビニで消毒液とガーゼを購入してきた多義に向かって彼女は脳天気に笑ってみせたのだ。

「どうって、言われても」
「何も無いならそれでいいんだけどさー。あ、バスケ順調?どう?サッカーと比べて」

今度はさくらんぼをつまみながら、天気の話でもするかのように話題を振る。
多義としてはあまり触れて欲しくなかった部分でもあるけれど、彼女は素知らぬ顔で口をもごもごと動かす。さくらんぼのへたを口の中で結べたら器用って証拠なんだよね、とどうでもいい豆知識を呟きながら。
最初の1回は、彼女から申し出てきた「お礼」だった。
丁寧に治療までしてもらって、助かったと。今居座っているカフェで、モンブランと紅茶のセットを奢ってもらった。
その後からの会合は、多義から申し出たもので。いつの間にか、月の中旬頃になるとどちらからともなくメールのやり取りとして落ち合うパターンが完成されつつある。
同級生とも、親とも、ちがう世代の彼女は何故か話やすかった。日常のどうでもいいことを小一時間くらい話したら解散するだけの会だけど、毎月毎月のそれが密かな楽しみなのだ。

「バスケは、背があれば有利だから、まぁ…」
「そっか。まぁ、いろんなことやってみなよ。本当にやりたいことがそのうち見つかるかもしれないし」

私は見つからないままここまで来ちゃったけどね、と苦笑いを浮かべる彼女は、やはり大人なのだなと実感する。
いつの間にかパフェを食べ終わったらしく、片手を挙げて店員を呼び、「いつもの」と注文している。
彼女の中では最初にパフェを食べ、その後にエスプレッソを飲むのがお決まりのコースとなっているようで、店員もそれは把握しているようだ。
砂糖も入れずにストレートで飲むことを好んでいて、やはりそこが自分とは違う大人の部分なのだろかとも思ってしまう。
以前一口飲ませてもらったけれど、とても苦くて飲めやしなかった。
眉間に皺を寄せたら彼女はけらけらと笑いながら、多義くんにはこっちの方がいいかもねとカフェモカを勧めてくれたけれど、どうせなら彼女と同じ物を飲みたかった。そうすれば、同じところに立っているような、同じ視線でいられるような、そんな気がするから。

「…大人って、どうすればなれるんだろう」
「難しい質問だね」

心の声が思わず口から零れ出たようで、思いの外はっきりと聞かれてしまった。
どことなく気まずさを感じて、手元のグラスに刺さっていたストローでアイスティーを吸い上げる。
ほとんど残っていなくて、溶けた氷と僅かな紅茶が混ざった微妙な味がした。
カラン、と氷が音を立てる。結露による水滴がテーブルの上で輪っかを描いていた。

「多義くんははやく大人になりたいの?」
「…子どもでいるよりかは、できる事が増えるから」

女手ひとつで自分を育ててくれた母親を今以上に手助けすることもできる。
自分ひとりの力でできることが増える。
そして何より、大人になれば。目の前の彼女と、対等な存在になれる。
そんな考え方のうちはまだまだ子どもだと自覚はしているけれど。

「年齢的な意味だったら、まだまだ先だけど。精神面では、大人とか子どもとかそんなに差は無いんじゃないかな」

一口二口、エスプレッソを口に運んでから彼女はそっとソーサーにカップを置いた。
かと思えば、また軽く持ち上げてゆらゆらと揺らす。波紋が広がるのを樂しんでいるのだろうか。

「いい例が私。成人式なんてとっくに終わってる大人だけど、考え方とかまだまだ子どもだよ。多義くんの方が大人っぽい」
「それでも、ぼくから見たら」
「まぁ、財力とか経験があるからねぇ…これは、すごく難しい問題だ」
「…確かに」
「でも、ひとつだけ確かなことがあるよ」

そう言うと、彼女はカップから両手を離して、頬杖を付いた。
じっとこちらを見つめる瞳は、いつもと同じように見えるのだけど、でもどこか鋭いような、そんな印象を受けた。

「多義くんが生きている『今』は、私が戻りたいって思ってる『昔』だってこと」
「……」
「昔が懐かしく思えるのは、歳をとった証拠かな。いずれ多義くんにもその時がくるから、生き急がないで。今を全力で楽しみなよ」

ちょっと、席外すね、と化粧ポーチを片手に店の奥へと消えていった彼女の背中を見つめながら、無意識のうちにため息をこぼしていた。
大人になれば、彼女に近づける。そう思っていたけれど、もしかしたらそれは程遠い話なのかもしれない。
テーブルの上にあった、彼女の飲み残しのエスプレッソをそっと一口だけ飲んでみた。
口の中に広がるほろ苦さは、やっぱり慣れることはできない。
苦いコーヒーが飲めるようになったら、大人に一歩近づけるかもしれないと思っていた時期もあった。
一歩近付いたところで彼女への距離はまだまだ遠いのだけれど、今の多義にはそれくらいしかできないのだから。
生き急いでも仕方ない。彼女の言葉通り、ゆっくりと今を生きながら大人を目指そう。
大丈夫。歩みが遅くても、彼女なら待っていてくれる。根拠なんてどこにもないけど、そんな予感がした。