「鳳壮くん」

 今日は珍しく一人で家路についていた日だったが、後ろからの声で、ただの珍しい日が稀有な日へと変化した。人気の無い道路脇に車を停め、窓から顔だけを出した女の顔を目に捉えると、俺は軽く手を上げて、よろよろとそちらに足を向ける。
まだ五月だというのに、風は生暖かくて、どこか暑さも感じさせる。目の前に停まるパステルカラーをした軽自動車の車内からは、ほんの微かにラジオの音が聞こえてきた。俺は緩やかな笑みを浮かべる女の前に立つと、左足に重心を傾けてゆったりと立つ。すると女が窓際に腕を凭れさせながら、飄々とした笑みもそのままに口を開いた。

「今、帰り?」
「ああ」
「……乗ってく?」
「おう」

 短い会話である。だが、俺とこの人には、このやりとりだけで十分だったりする。
車内に乗り込めば、ある程度綺麗にされているシートの横に、煙草の空箱がいくつかねじ込まれているのが見えて眉を顰めた。だが、それを手に取ることもせず、身に刷り込まれた習慣のようにシートベルトへと手を伸ばす。少し引っかかり気味のそれに四苦八苦していると、横から耳を擽られるような笑い声が聞こえたので、咎めるような目線を笑い声が聞こえた方へ向ける。すると、すぐそこにある悪戯っぽい表情と目が合った。俺はこの人のこんな笑顔がちょっと、いや、少し苦手だ。

「お、エライ。言わなくてもちゃんとシートベルトしてくれるんだ。降矢教授の教育の賜物だね」
「……いや、これはオフクロの躾」
「あは、だよね。わかってるわかってる」

 わかりきっている、と彼女の顔には書いてあった。この人は親父がどういう人間なのかを、よく知っている。
微笑ましげに一挙一動を観察され、微妙な気持ちになりながらシートベルトの金具を止める。すると、車が低い唸り声を上げて、発進した。
 最近になって俺達三人の前に姿を現すようになったこの人は、どうやら父がよく目に掛けている教え子のようだった。よう、と言ったのは、父からもこの人からも、どのような間柄なのかをはっきりと聞いたことが無いからだ。親父とこの人の間に色気なんてものは無い。俺達は二人の間に流れる微妙な雰囲気の流れで、どういった間柄かを想像していた。あの親父はそういうところに無頓着で、この人はそもそも俺達の事なんか気にしちゃいなかったからだ。この人が俺たち三人の姿を見分けられるようになったのも最近で、つい先日までは竜持と俺の見分けがついていなかったのである。―――私、竜って赤い色してるってイメージあるんだよね。と言って困ったように笑う姿に、虎太と竜持は困惑を、そして俺は悔しさを覚えていた。(緑の鳳凰なんか、居るかよ)と、彼女に言ったところで、自分の理解出来ない次元から返事が返ってくると知っているので、口には出さなかった。
ただ、忘れっぽい父親の忘れ物を研究室から降矢家に届けるために、度々うちに顔を出すだけだ。この人の家が俺の家から車で十五分程走らせたところにあるという、それだけの理由だった。
 俺が事の外悔しがったのは、初めて見た時からこの人を特別気にかけているからだ。特別に想われたい。それは簡単に言えば一目惚れのようだったが、俺は彼女を人目見た瞬間よりも初めて言葉を交わした瞬間の方をよく覚えていたので、それが俗にいう一目惚れなのか否なのかはわからない。ただ、大人のような姿形をしていながら、時折屈託無く笑う姿に、妙に心が疼いたのは真実だった。二度目、三度目、会うたびに子供なのか、大人なのか、正体がまったく掴めないまま天秤が揺れる。
 運転をする横顔を眺めていると、「虎太くんと竜持くんは? 一緒じゃないの?」という問いが投げかけられた。二人は揃って商店街に居ると答えると、この人は自分で聞いた癖に「ふうん」というなんとも気の抜けた返事を返してくる。思わず片方の眉を持ち上げたが、溜息を一つ吐いてその苛立ちにも似た心の淀みを払った。――怒っても無駄だ。この人にはそう思わせる雰囲気がある。
そのまま、適当な言葉を一つ二つと交わす。だが、退屈な会話を続けるつもりも無く、ブツ切りな会話の後には長い沈黙が訪れた。ラジオから大手チェーンのファミレスの広告が流れている。

「あー、腹減ったな」

 チーズハンバーグがどうたらこうたら、という謳い文句が流れたところで、思わず口からそんな言葉が零れていた。腹減った。眠い。寝る。この三つの言葉は、無意識に言ってしまうから困る。窓枠に肘を突いて、ぼんやりと外を眺めていると、隣から堪えきれないというような笑い声が聞こえた。笑われた所為か、無性に恥ずかしくなって口を噤む。この人が笑うと、俺は子供であることをまざまざと思い知らされるようで、居心地が悪くなった。本当はくだらない事で笑うなと一言釘を刺しておきたいところなのだが、もしもこの人に「子供は子供でしょう」なんて答えられたら、俺は本格的に立ち直れなくなるだろう。

「お腹空いた?なんか食べていく?」

 くすくすという笑い声を含みながら問われる。その年上面した様子に、素直に傾くには妙な意地を張ってしまいそうになる。だが、むきになるのも子供っぽく見えて癪だ。なので、俺は少しぶっきらぼうに「ああ」と返事をするしかなかった。

「じゃ、ファミレスでいっか……あ。でも、お母さんがご飯作ってお家で待ってるんじゃない?」
「それは大丈夫、帰ったらメシはメシで食うから」
「……流石、成長期」

 そんなに持ち合わせあったかなあと気の抜けた独り言を零しながら、彼女はハンドルを切った。途端に車が大きく傾いて、自分の体もぐらぐらと揺れた。思いの外、荒っぽい運転をするんだな。俺はちかちかとする視界に、少しだけ目を白黒させながら、運転席の方へと視線を向けた。横顔をまじまじと見つめれば、この人は軽快な鼻歌でも歌いそうな様子でハンドルを握っている。此方の視線に気づかないのをいいことに、そのままじっくり観察をすれば、形の良い耳、耳朶に挟まった金色のピアス、そしてすっきりとした首筋が見えた。ちらちらと覗くその肌は、年中外でのサッカーに明け暮れる自分のものとは違って、徹底的に白く、眩かった。見つめていれば、何処となく良い香りまでしてきそうになるので、俺は内心物凄く慌てる。くらくらと眩暈までしそうになった。そんな俺の下心を察するように、ちらりと流し目が寄越される。――厄介な女に捕まった。俺は瞬時にそれを悟った。俺の視線を軽く往なすように微笑んだこの人は、俺の心の内なんか、全部知ってやがる。



 きょとん、とした表情が此方を向いていた。

「それ食べて、ほんとに晩御飯食べられるの?」

 そう言って指をさされたのは、テーブルに乗った料理の数々である。無性に空腹感が襲って来た腹いせに、ステーキとホットサンド、サラダに加えてデザートを頼んだら、この人は目を丸くした。俺はその言葉に「まあ、余裕だな」と特別な反応を示す事無く、食器を取る。ファミレスの薄っぺたいステーキをナイフとフォークを使って五等分程に切り分けて、食器を箸に持ち替えれば、感嘆するような溜息が零された。

「それ以上でっかくなって、どうするの?」
「……タッパはあればあるだけいいだろ」

 俺の言葉を聞いて、彼女がしげしげといった様子でコーヒーカップを持った。一口含めば、途端にその表情が変わる。どうやら、苦かったらしい。渋い表情をしたままにカップをゆっくりと置き、コーヒーシュガーをいくつか注ぐ彼女の姿は、とても二十歳を二歳も過ぎた女には見えない。もしかしたら、自分は成人を迎えた女に過度な期待をしているのか、とも考えたのだが、目の前のカップに四個目のコーヒーシュガーが注がれたところで、その思考を止めた。

「なんだそれ、砂糖水じゃねえか」
「鳳壮クンは甘いコーヒーの美味しさを知らないから、そんな事が言えるんだよ」
「二個くらいが良い塩梅だろ」
「あ、鳳壮クンもコーヒーは砂糖入れる派なんだ」

 仲間だね。なんて言われて、俺は返事も返さず肉を頬張った。話の論点がころころと変わるので、一々相手にしていてはこっちが疲れるというものだ。俺が肩を竦めたのにも関わらず、目の前に座った女は知らぬ存ぜぬといった態で、あのクソ甘ったるいコーヒーを楽しんでいた。余談であるが、俺はコーヒーに砂糖だけ入れるという飲み方はしない。コーヒーフレッシュと砂糖がコンビだ。その上、コーヒーは滅多な事が無い限り、飲まない。
 俺がそんな苦々しい気持ちで肉を咀嚼している間、俺が話せない事をいい事に、話題は「数学者はコーヒーを定理に変える機械だ。・・・なんていう言葉もあるんだよね」という、至極どうでもいいものに変わっている。(俺は、こんな女のどこが良いと思ったんだ)と、内心悪態を吐きながら、一人盛り上がって笑う女をじっとりとねめつけていると、目の前に持ち上げられたカップから、ぼろっとコーヒーが零れた。その様子にぎょっとして彼女の方を見れば、困ったように笑っている。ワインレッドの色をしたブラウスの胸元に、黒々とした染みが出来ていた。

(俺が焦ってどうするんだ)

虚しくなって溜息を吐いた。これでは、どっちが子供なのか分からない。俺はすっかりいつもの調子で、子供と大人の境界を彷徨う彼女のペースに惑わされている。

「ほら、早く拭けって」

 ぽいとナフキンを投げつければ、覚束ない手付きで辺りを拭き始めた。机やカップの底についたコーヒーを拭うと、不意に此方に視線が向けられる。ばっちりとかち合った目線が嫌に挑戦的で、俺は面食らった。その視線の意図が、読めない。

「何だよ」

 少しの沈黙の後、むっつりと顰められていく表情筋の軋みを感じながら、そう言うと女はしれっとした様子で「何でもない」と答えてくる。――どうせ、禄でもない事を考えているのだろう。と最初は鼻で笑っていたが、ふとその視線を思い出して、心に引っかかるものを感じた。暫く考えた後、もしかしたら、俺が焦る様子を見て楽しんでいたのかもしれない。という考えに行き着くと、自分でも段々と不機嫌になってゆくのが分かる。態と子供っぽいところを見せて、仮初の優越感に浸らされているのだろうか。もし、そうだとしたら俺は完全に遊ばれているのだろう。暢気そうに見えて、この人は結構打算的だ。そして、こういった無意味な悪ふざけで、人をからかうのが大好きな人種でもある。
 本日何度目になるか分からない溜息を吐く。水を一口飲んで、グラスを手元に置いた。指先に付いた水滴がひんやりとした感覚を取り戻してくれる。段々と肩肘張っている自分が滑稽に思えてきて、馬鹿馬鹿しくなってくる。この人は、十も年の離れた男をからかって、何が楽しいのだろうか。この遣り取りを楽しんでいるのなら、この人は相当悪趣味だ。

「なあ、気づいてるんだろ?俺がアンタをどう想ってるのかってこと」

 今までの遣り取りの裏側に見えた、様々な感情を咎めるような声音で言えば、辺りの雰囲気に緊張が走った。一度、自分の意思をはっきりと自覚させる頃合だと思う。睨み付ける様な厳しい目線を彼女に向ければ、伏目がちな表情がそこにあった。その表情にどきりと心臓が跳ねるが、ここで動揺しては惚れた弱味どころの話では無い。

「うーん、どうだろうね。どう思ってる?」
「愛してるって事だよ」

 逃げ場を与えぬように、きっぱりと言葉を続ける。すると、この人ははっと目を見開いて、それからすぐに表情をいつもの飄々としたものに戻した。

「愛してる、かあ」

 愛しているという言葉が、俺には不釣合いな事は分かっていた。現にいまいちピンと来ない、とでも言いたげにふわふわとした口調で反芻されている。俺はそんなこの人の態度に、もどかしさを覚えていた。そう、いつももどかしさを感じている。まだ、毛も生え揃っていないような餓鬼に、愛だのなんだのを偉そうに謳う資格は無い。だが、恋愛経験も薄い俺にとっての武器は、それこそ持て余している程の若さしか無かった。――それが、この上なく悔しい。

「アンタと居ると、嫌でも自分が子供だって言われてるようで、悔しくて堪らねえ……」

 押し殺したはずの言葉が堪え切れずに零れた。冷静なフリを装いたかったのに、それをいざ言葉にしてみれば、ただ拗ねた様にしか聞こえない。少し身体がデカくて、声が低いだけの大きな子供。この人にはそう思われたくないと思っているのに、飄々とした彼女はいとも簡単に俺が嫌がる部分を引きずり出す。苦虫を噛み潰したような、渋い表情をしているのがよく分かった。そんな苦しげな表情で、彼女の言葉を待っていると、予想外にも困惑したような顔が見える。その後、ゆっくりと思案するように唸った。

「うーん、私だって今でも子供だよ。当たり前のように小学校から大学まで進んできて、大人だって言われる二十歳を過ぎても、こうして親の脛を齧ってるんだから」
「でも、アンタは俺から見たら十分大人だって」
「そうかな。だって、私胸も無いし、背も小さいから、見た目も子供みたいじゃない」

 そう言ってケラケラ笑うこの人は、そう言いながら灰皿を引き寄せて、煙草を咥えた。ロンソンなんたらとかいうメーカーの、変な形をしたオイルライターがきらりと鈍い光を放って、反射光が視界にチラチラと入り込む。俺は、心の内で大きな舌打ちをした。この人は自分の事を子供だなんてこれっぽっちも思っちゃいない。胸が無いと言われて、言葉の通りにじろじろと体を見つめてしまう。彼女はああ言ったが、体のラインと顔にかかる前髪は、到底子供とは程遠い。そして何より車、煙草、変な形のオイルライター、何れをとっても俺の世界には無いものだ。煙草の煙がゆっくりと自分の方に向かってくる。払いのけるのも、何だか癇に障った。だが、煙を思い切り吸い込んで咳き込むのは、もっと情けなく思えて、もっと嫌だった。

「子供っていうのはホント。鳳壮クンだって、幾つになっても子供っぽい大人に出会うよ。うん、もしかしたらもう出会ってるかもしれないね」

 そんな人間はいくらでも居る。学校の先生共、サッカーチームのオーナー、コーチ、自分の身の回りにはそういう人間しか居ない。でも、鳳壮はその考えを鼻で笑う事で振り払った。

「いくら子供っぽくても大人は大人じゃねえか」
「私、鳳壮クンは言葉をそのまま受け取るような人間じゃないと思ってたんだけどな」
「これは論点の問題だろ」

 段々と話の方向性が変わってきている事に、言い得ぬほどの脱力感を覚える。結局、俺がこの人の事を愛していると言った事実は有耶無耶にされてしまった。話を元に戻す気も起きず、気恥ずかしさと微妙な遣り辛さを余韻として残した空気に、居た堪れない気分になる。それと同時に、めんどくさい女を好きになった自分を責めた。振り回されっぱなしは性に合わない筈なのに、ころころと変わる感情や時折見せるアンニュイな表情、頭だって馬鹿ではなく、むしろ強かで賢い、そんな彼女の一つ一つがどうしても心を捉えて離してはくれない。これが初恋か。俺はそう自分の頭に問い、自分で肯定をした。ここでフラれても、暫く諦めてやるつもりも、無い。
そんな覚悟を決めていた俺に向かって、唐突に彼女の発した言葉は至極明るいものであった。

「きっと、鳳壮クンはいい男になるね。顔も良くて、背も高くて、頭も良くて」

 たっぷりの沈黙が俺たちの周りを埋め尽くした後に、その言葉は不自然に浮かんでいるようにさえ思えた。彼女の言葉は自分を褒めたつもりなのであろうが、俺の心には全くもって響かない。むしろ、どこか不快な気持ちにさせられる。空回っているような、のらりくらりと躱されているような、はっきりとしないもどかしい苛立ちが、俺の表情を更に歪ませた。

「でも、俺はアンタに好かれなきゃ意味がねえって思ってる。顔が良くても、頭が良くても」
「わ、すっごい口説き文句。鳳壮クンは浮気とか、しそうでしなさそうだなあなんて思ってたのに!」

 何気なく失礼な言葉を言いながら、おどけた様に肩を竦めたこの人は、煙草をゆっくりと灰皿の奥に沈めた。

「ごまかすな―――……なあ、これでも俺は本気なんだ。俺にちゃんと向き合ってくれよ。歳なんか関係無い。十の差なんか、三十にもなれば大した差でもない」

 そう言うと、彼女は押し黙ってしまった。人気の少ない夕方のファミレスではボリュームが絞られたスピーカーから陽気な音楽を流している。この人はむっつりと思案するような横顔で、前をじっと見据えていた。もしかしたら、この人は俺の言った言葉の数々に、どういった『大人の反応』をするべきかを考えているのかもしれない。そう思った瞬間、俺は自分の言った言葉の数々を後悔した。だが、彼女は沈む俺に視線を向ける事も無く、ぼんやりと外を見つめた後、独り言のようにぽつりと「なんで、私なんだろうね」と呟いた。その言葉の真意が分からずにしかめっ面ばかりしていた俺が、どんな表情をしていいか悩んでいると、彼女はちらりとこちらに顔を向けて他人事みたいに笑った。少しだけ下がった眉と、口元に浮かんだ微笑は、悔しいが物凄く様になっている。
 どうしてこの人じゃなければダメなのか。その問いに答えるのは、俺には難しかった。答えは俺しか知らない筈なのだが、言葉にするには動物的すぎて、曖昧で、勢いがある。一言で言えば、脳みそがこの人じゃなければいけないと訴えるのだ。若い恋愛なのかもしれない。初恋にしては、やや捻くれているかもしれない。だが、それはきっと、それは大人への複雑な思いとか、そういうものではなかった。

「多分、俺はずっとアンタの事が好きだと思う」

 何も考えていない脳みそから零れた言葉が口をついた。すると、困ったように笑ったまま「それは嘘だよ」とこの人は言った。

「嘘じゃねえ」
「でも、言い切れる程確かなものでも無い。そうでしょ」

 そう言って、この人が悲しそうに笑う姿が脳みその奥に焼きつく感覚がした。伏せ目がちに笑うその姿は、まるでいつか見た、水仙の花の亡霊のようだ。
「いや、俺は違うって言い切るぜ。俺は忘れないからな、こうやって喋ってる光景を覚えてる。こん時に、俺がどんな気持ちでアンタと向かい合ってるかどうかだって、ずっと覚えてるんだ」
 瞬きをすれば、すぐに思い浮かべる事ができる。きっと、多分これからもずっと。それが俺の特技だからだ。そう、自信に満ちた瞳で見上げれば、この人は驚いたように目を見開いて、ぱちぱちと瞬きをした。だが、俺には忘れない絶対的な自信がある。頼まれれば、これから話す遣り取りを全て記憶していたって構わない。
この人が目の前で隠しきれない動揺を見せるので、俺は久しぶりに心から笑った。彼女の顔には「どうして、そのような事が言い切れるのか」と、徒に自信に満ちた俺への驚きが満ち満ちている。俺がこの人についてまだ何も知らないように、この人も俺について何も知らないのだ、という当たり前の事が妙に心に染みた。

「そもそもさ、アンタが俺に一言嫌だって言えば、この話はすっかり綺麗に無くなるんじゃねえの」
「馬鹿、ドキドキしてるから、こうして困ってるの。こんなに熱烈に口説かれるなんて、生まれて初めてで、どうしたらいいのか分からない」

 心に余裕も出来、すっかり冷めてしまったホットサンドに手を伸ばせば、挙動不審な態度をする瞳と目が合った。心なしか、顔が赤く見える。俺はそんな姿を見て、ほくそ笑んだ。これが駆け引きってやつか。そう思えば、心が高揚していくのが分かる。

「じゃあ、いいじゃねえか。俺が良くて、アンタが良いなら」

 すっかり逆転した立場に、俺はすっかり踏ん反り返ってそう言った。その言葉を上手く消化できなかったのか、もごもごと歯切れ悪く何かを言うこの人を、じっくり観察するべく肘を突く。彼女がじろじろと見ている俺に気が付いたのは随分と時間が経った後で、うろたえる彼女を見て、俺はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。

「私は、鳳壮クンが思ってるほど大人なんかじゃないからね」

 拗ねた様に言う、目の前の二十代に、俺は満足そうに頷いて、言った。

「それなら心配いらねえよ。俺は大人ってやつが、どうも好きになれないからな」