小説 | ナノ

「おはよう、公子」
 その声は、絶対に届かない。それを承知で毎朝毎朝飽きもせず挨拶をしているのは、家の門をくぐって出てきたばかりの空条承太郎だった。
 一体どれほどの音量なのか、公子の耳から漏れ出しているシャカシャカという音が承太郎の挨拶を完全にかき消している。だが承太郎とて伝えるためにいっているわけではないのだからそれはそれで構わない。公子が空条家の門扉を通り過ぎたのを内側から確認して、背後につくように移動してから呟いているのだから。
 学校に着くまでに女子が一人また一人と現れては承太郎を囲んでいく。周囲の喧しい声を気にも留めず公子を真っ直ぐと見つめていると、公子の友人が手を上げて彼女に挨拶する。もちろんそれに反応して公子も軽く手を上げて、小さな唇をぱくぱくと動かす。が、周りの女共の声のせいでそれは聞こえない。だから承太郎は周囲を叱り飛ばす。
「やかましい!うっとおしいぞ!」

 クラスどころか学年も違う。となると校舎も違う。何の接点もない二人だったが、承太郎からすれば接点しかなかった。
 昨日だって放課後家までちゃんと送り届けた。休みの日も一緒に出かけた。そう、彼女は気づいていないが、いつだって一緒にいる。夜にコンビニに出かけてアイスを食べながら帰ってくることも、バイトのシフトと帰宅経路も知っている。金曜夜は飲食店の繁忙日だからいつも遅くなることも、そのとき一人で人気のない夜道を徒歩で帰っていることも……知っている。
 承太郎が知らないのは、彼女の気持ちだけだ。彼女は承太郎のことを何一つ知らない、気にも留めていないということだけを知らない。どれだけ彼女を見つめてもその考えに至らない。いや、見つめているからこそ、そこに行き着かないのか。

 バイトに行くときに最低限の荷物しか持って行かないことも知っている。ポケットに少々の小銭と携帯電話。以前盗難騒ぎがあってからというものの、現金はもちろん高校生には値の張る化粧品やそれを入れるカバンすら持って行きたくなくなってしまったのだ。
 つまり、今携帯電話を見ながら歩く公子が背後から誰かに襲われたとしても、自身を守るための催涙スプレーはおろか投げてぶつけられそうなものすらない、本当に無防備な状態だということだ。
 駅や学校方面と家を繋ぐ道に、空条家はある。いつもは硬く閉ざされている門扉が開いていることに、画面を見るのに夢中の公子は全く気がつかなかった。そこを通り過ぎる直前、太い腕が進路を阻み、ぶつかって倒れた体をもう一本の手で支えられる。と同時に口を押さえつけられ、門の内側にずるずると引きずりこまれる。
「んー!?」
 この巨大な敷地に何があるのか、公子は知らない。近所というほどでもないし、何せ本来民家が立っているだけなのだから情報も何もない。だからここはヤクザ的職業の事務所なのだとすら思っていた。そんな場所にこのような乱暴な方法で引きずり込まれたのだ。今自分が事件に巻き込まれているという自覚が恐ろしい速度で芽生え、暗がりの中押し倒してくる影は見知らぬ犯人なのだと思い込んだ。
「公子」
 だがその考えが一瞬で覆される。確かに今自分の名前を呼んだ。自分のことを知っている人物に、この場所に縁のある者はいない。では、今公子の唇を息も荒く舐めているのは一体誰?
「新しくバイト先に入ってきたあの男に気を許しすぎだ。お前は既に俺のものだということを、一度きちんと自覚させてやる」
 バイト?確かに最近新人の男の子が調理場に入ってきた。出来上がった料理を笑顔で渡してくれる彼にときめいたのも事実だ。では、今公子の服を引き裂き、上半身をくまなく撫でているのはアルバイト関係の人物?
「それとな、お前のクラスメイトの梶田。アイツはお前に惚れている。アイツと二人きりになることは許さねぇ。俺がずっと見張ってっからな」
 いや、今度は学校の話題に言及してきた。一体どうなっているのだ。同じ学校に通う友人で公子のバイト先を知っているのは全員女子のはずだ。では、今助けを呼ぼうと開いた口に、塩辛い味のする熱い肉棒を無理やり入れているのは誰?
「こうもお前の周りに羽虫が集る様になるとはな。俺の存在を認知させるのが遅すぎたか。だが、明日から俺の彼女だという自覚をちゃんと持って、周囲をけん制しろよ」
「あ、あなた誰!?」
「ああ……会話するのは実は初めてだな。付き合ってもう長いのに」
 意味が分からない。しゃべったことのない相手と長い付き合いになるというたった一行の矛盾に何故気づかないのか。それとも、気づいているが承知のうえで矛盾したことを言っているのか。そうだとしたらこの男はもう、狂っている。
「三年の空条承太郎だ」
 月光が雲の隙間からこちらに延びてきた。暗闇の中に浮かぶエメラルドの瞳が印象的だ。そこにかかる自分よりも長い睫が上下にゆっくりと動いた。先ほど思ったとおり、その目に正気はない。
「庭先でっつーのもなんだから、家にあがるか?」
 その問いに公子は答えられない。現実離れした状況に極度の緊張が発汗と言語失調を併発させたのだという冷静な分析が脳内に浮かぶ。流れ出す汗を舌で掬い取る男の顔は美しかったが、校内で時折聞く噂がすべて本当ならば、ここで逆らうことは大怪我に繋がる。
(最悪、死ぬ……)
「答えねぇっつーのは、ここがいいのか?家にあがるのも我慢できねぇなら、いっぺん発散させてやるよ」
 震える足をいとも容易く左右に開くと、下着の上から女性が一番感じる場所を爪の先で探り当てる。公子の体が跳ねた場所を確認すると、そこを爪で小さくこすった。下着のすべすべとした感触の上を爪が滑っていく。初めて覚える感覚に公子は恐怖の中に悦楽を見た。
(ああ、ここ先輩の家なんだ……。ヤクザの事務所ってのもあながち間違ってないや。ハハ……)
「濡れてきたか。まあまずは指で慣らしてやるから、安心しな………………おい」
「は、はい……」
「お前、はじめてじゃねぇのか?」
「……」
「誰とだ」
「もう、別れました。中学生のときです」
「名前は。そいつの」
「……忘れました」
「なかなか可愛らしい答えだな。それに免じて許してやってもいいぜ。で、今カレの名前は?」
 この問いを誤れば、きっと今よりもひどい目に合う。正しい返答が何なのかも分かっている。だがそう答えることは、全てを諦めることだ。反抗か、服従か。それは身の安全を捨ててまで抗うべきことなのかどうか。
 だが公子には考える時間がない。恐怖は本能的に、身の安全を、つまり服従を選んでしまった。
「……クウジョウジョウタロウ先輩です」
 もう、後戻りは出来ない。
「よし。恋人のなら、自分から奉仕出来るよな……しゃぶれ」
「は……っ……あぁ……」
「出来ねぇのか?彼氏のだぜ?」
「し、しま……す」
 相反する二つの感情が同時に湧き出でることを、その日初めて公子は実感した。知識としては知っている。嬉ながらも涙が出たり、怒りながらも喜んだりする場面があるということを。そして今は、恐怖しながらも男性のイチモツを口にし、下半身が疼くことを知った。嫌がっているのに欲しい、という言葉は、話したことはないが付き合いが長い、という言葉と同じように矛盾を抱えているのではないか。
 それを理解できた公子もきっと承太郎と同じように瞳から正気が失せているのだろう。

 朝。
「よぉ。おはよう、公子」
 公子の耳を塞ぐイヤホンを指で絡めとり、承太郎は初めて公子に対してきちんと朝の挨拶をした。
「おはようございます、先輩」
「承太郎でいいぜ。学校行くか」
「……はい」
「今日三時間目体育だろ。見てるからな、教室から」


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