小説 | ナノ

「父さん。忘れ物」
 白衣を着た全員が扉の方を振り向く。そこに立っていたのはこの研究室という場所には相応しくない少女だった。
 緑のメッシュの髪、厚く塗られた唇、アイラインがくっきり引かれた瞳、何よりも若く、その有り余るエネルギーを遊びに発散させていそうなオーラ。彼女が父と呼ぶのは一体誰だとぐるりと室内を見渡すと、その声に呼応して立ち上がったのは室長の空条承太郎だった。
「すまないな」
「別に」
 分厚い封筒を渡すと、少女は部屋をあとにした。忘れ物を職場に届けるという普通の光景なのだが、一同の間にはまるで嵐が通り過ぎたかのような妙な静けさが残った。
「……娘の徐倫だ」
「室長、お子さんいたんですね。かわいかったなー」
 仕事は遅いが手が早い研究員が顔をにやけさせながら言ったあとにハッと我に帰って承太郎を見た。影の奥に刺すような眼光が走り、男は死を覚悟する。しかし承太郎はすぐに視線を別人物に向けた。
「子供もいるが、もう自立しているし、妻とも大分昔に別れている」
「そ、そーなんすか」
 男が返事をしたが承太郎がそう訴えたいのは別の人物だ。エメラルドの瞳が捉えているのは、同じ日本出身の主人公子である。
 その視線に公子も気づいて、同じように
「そーなんすか」
と答える。
(珍しいな。室長がプライベートなこと話されるの)
「私は長いこと独身だ」
「はあ」

 近年、ヒトデが融解して消滅するという症状が散見され、承太郎の仕事は数倍に増えてしまった。どうやらウィルスが原因らしいというところまではつきとめたのだが、発生条件、治療方法、またヒトデの消滅による近海生態系への影響など、調査せねばならないことは山積みだ。ヒトデの観察のために研究室には二十四時間人がいる状態になった。
 公子は夜勤へと勤務時間を変更され、夜の十時から朝六時までラボに顔を出すようになった。そしてその間一緒に仕事をするパートナーが、
「すまない、遅れた」
「いえ。会議ですから仕方ないですよ、室長」
承太郎だ。
「お詫びに甘いものを買ってきた。冷蔵庫に入れておくから休憩中に食べてくれ」
「ありがとうございます」
 承太郎と夜勤に入ることになって二週間目。誰もいない室内で計器の数字と睨めっこするばかりなので自然と会話することになる。母国語が同じというのも大きい。
「主人くんは家はここから近いのか?」
「はい。バイクで五分ほどです。博士は……娘さんと一緒に暮らしているのですか?」
「ああ、あのときの封筒か。あれはたまたま娘がウチに顔を出していただけで普段は一人で暮らしている。娘がウチにくることは滅多にないんだ。あのときくらいだ。あれ以降も全く姿を見せていないしな」
(室長、娘さんのことになると多弁になるなぁ。お好きなんだろうな)
(徐倫の母親を探しているという誤解があってはいけない。徐倫もこんな若い女性を紹介されても困るだろう)
 研究室というとなかなかに固いイメージをもたれがちだが、空条ラボはその辺りがどうも緩い。仕事さえしてればなんでもいいという考えだ。例えば徐倫に手を出そうとして一瞬で諦めたあの男性所員はそこの事情をよく熟知しており、なんとオーディオ機器を持ち込んでいる。
「何か音楽でもかけるか」
 そしてそれは消耗品でなければ勝手に使われる。R&B Hip-Hopのゆったりとしたメロディーと輝く水槽が、なんだかムードを盛り上げる……気がしないでもない。
「夜勤は慣れたか?」
「あ、もう大丈夫です。初日みたいにもう寝ちゃったりしませんので」
 恥ずかしそうに顔を俯かせながら笑って誤魔化す。単調作業が続くので、時間帯と相まってどうしても眠くなってしまうのだ。だがもう体を夜型に慣らしているので大丈夫なはず。
(寝顔をもう一度見たいが……いや、次に見るときはベッドの中で、俺の腕を枕にしているときだな)
「博士は昼から活動なさっているんですよね。眠気がこないんですか?」
「会議中に眠っているから問題ない」
「それ問題しかないですよ」
「フッ」
「あ、笑った」
「ん?」
「ご、ごめんなさい。室長の笑顔見たの、ひょっとして初めてかもーっと思って」
 言われてみて否定しようとしたが、自分の仏頂面と無愛想ぶりはよく知っているので言葉を飲み込んだ。
(しかし、きみは俺を誘ってるのか?俺の笑顔を見ただけでそんなに嬉しそうな顔をして)
「室長とこうやってお話していると、色々な面が見られて新鮮ですね」
「君の色々な面も見てみたいな」
「私はこのままですよー」
 笑顔も、子供の話も、公子がいるからこそ出てくる。こうやって少しずつ互いを理解しあえば、いずれこの胸の奥底の愛情も汲み取ってもらえるだろうか。
(いや……海と同じだ。海底に沈む宝に手を伸ばせば、沈殿した汚れが舞い上がって視界を遮る)
 承太郎はこうやって公子と交流を深めるのが楽しいと思う一方で、不安を感じていた。一枚ずつベールを脱がせるように、互いの心に纏うものを剥がしていく。最後の一枚が捲られた先にあるこの鉛のような重い愛を見て、彼女が逃げ出さないだろうか。
(四十のバツイチの男が、まだ二十代半ばの女に結婚を申し込みたいと考えているなんて……君が知ったら、どう思うんだ)
 知ってほしい、知られたくない。相反する気持ちが織り成す気持ちに揺れ動くのさえも、気持ちいいと感じてしまう。互いの親睦を深める純粋な楽しさと、重たすぎる愛に気づかれたときには公子を拘束して逃げ出せない環境に追い込んでいるであろう策略を巡らせる楽しさ。
(静かに海底の宝物を手にすればそれでよし。もしも舞い上がった砂塵に驚いて逃げ出そうとしても、手遅れだ。そうなるように君を追い詰めていくのが、楽しくて仕方がないんだ)
 本来この夜勤の仕事もべつの所員に任せればいい。というより昼間に外せない仕事がある承太郎がやるべきことではないのだ。しかし睡眠を削ってでも、このゲームに興じていたかった。柵で囲み、包囲を徐々に狭めていく、勝敗の決まったゲームを。


prev / next
[ back to top ]


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -