ああ、困った。
なまえは額を押さえて、溜め息をつきたくなった。
何に困ったのかというと、明日が提出締め切りのレポートの事である。
最後の見直しの作業をしていた所、言葉が抜け落ちているのを発見してしまったのだ。
完成した当時は、手持ちのレポート用紙がぴったり無くなった事に少し喜んでいたりもしたのだが。
なまえはあの時の自分を殴ってやりたい心境にかられた。
時計を確認すれば、丁度二時を過ぎた所を指していた。
寒さが厳しさを増してきているこの季節。そう簡単に外へは出て行きたくないのが心情ではあるが、単位がかかっている。
仕方なしになまえは、マンションの近くにあるコンビニへ足を運ぶ事にした。
目当ての物を購入し、アパートに向かうなまえの目に、行きには見かけなかった人影が映り込んだ。月の光に反射する銀髪の持ち主は、アパートの壁に手をつき微動だにしない。
「あの、具合でも悪いんですか?」
「…誰だ貴様は」
えーと、と言いながらなまえは頬を掻いた。
このまま放置してもいいが、アパートの前で凍死でもされたら困りものだ。
「あー、このアパートに住んでる者です。顔、真っ青ですけど…?」
「放っておけ。私に関わるな、人間風情が」
「は?」
なまえは驚きから、大きく目を瞬かせた。
「人間風情って…。あなたも人間でしょ?」
「貴様らと一緒くたにするな。私は人間などではない、吸血鬼だ」
またしてもなまえは目を瞬かせた。
人外発言に愕然としたのも理由の一つではあるが、まさか自分の目の前にいる青年が吸血鬼だとは信じられなかったからだ。
「え、吸血鬼って血を吸う西洋の怪物?」
自称吸血鬼の青年は馬鹿にしたように、鼻を鳴らした。
「西洋の紛い物な訳があるか。私たちは遥か昔からこの地で山、自然の生命力を吸収し生きてきた。人間の血に頼らずとも生きていける」
「じゃあ、なんでそんなフラフラなんですかね」
急に黙りこんだ青年の顔は真っ青だ、土気色に近いと言っても過言ではないかもしれない。
「な、何だ。何がおかしいっ」
まじまじと見つめるなまえに、青年はたじろいだようだ。
元々吊り目気味な瞳が、ゆらゆらと揺れる。
「いや、なんか血が足りなさそうだなあ、とか」
「私が貧血だと?そのような事…」
青年はぐらりと傾ぎ、たたらを踏んだ。
「やっぱり貧血なんじゃ…。血、飲まないとか意地張ってる場合じゃないくらい、重傷な」
「誰があのような生暖かく、ドロドロした液体を好きこのんで飲むものか。飲むくらいなら飢え死にした方がましだ」
「つまり、血が嫌いと」
「私がいつ血の味が嫌いと言った!」
あ、この人見かけによらずダメな人だ。
なまえは、憎々しげに「本調子であれば貴様など…っ」と呟いている青年を尻目にぼんやりと思った。
しばらく互いに黙ったままであったが、なまえは青年の顔色が時を経るにつれて白くなっていくのに気がついた。
血が足りていないのに、この気温の中にいるだなんて自殺行為に近い。
「あー、とりあえず家とかあがりませんか」
「…断る」
「即答…。貧血で死にそうな人、あれ人じゃないか吸血鬼か。まあともかく、知り合ったあなたが次の朝とかにでも死んでたらいたたまれない。という訳ではい、いらっしゃいませ、歓迎しますよーっと」
「肩を押すな、そもそも何故貴様の世話にならなければならない!」
ぐいぐいと青年の肩を押し、なまえは問答無用とばかりに進んでいく。
「あわよくば血が吸えるかも、なんて考えないのかなあ」
「いらん!」
青年の必死の抵抗に、なまえは額を壁にしこたま打ちつけた。
唸りながら額をさすると、ぬめりとした感触。どうやら出血しているようだ。
「あたたた、案外力強い…」
だらりと垂れてきた血液を、手のひらで拭おうとした時だった。
「…う、ぐっ」
青年が口を手で押さえて、体をくの字に折り曲げた。
「え、もしかして、もしかしなくとも吐く?」
「…私に近寄るなっ…ぐ…」
キッと睨みつけられてしまった。
なまえの部屋まではすでに目前、なまえはさっさっと部屋に入れてしまおうと青年の右腕を首に回させ、駆け足で部屋へと向かう。
だらだらと流れる血が、頬を滑るなんとも気味が悪い感触を味わいながら部屋に到着した頃、青年は目が虚ろになっていた。そして思い出す。
あ、この人。血が嫌いなんだっけ。
かくして血液嫌いの吸血鬼との奇妙な関係が始まろうとしていた。