大学生になると生活のリズムががらりと変わってしまう事は分かっていたが、それでも疲れてしまうものだ。大学校内に一日中籠もりっきりで検定の勉強をしていたせいか、肩が酷く重い。早く、家で休もう。好都合な事に明日からは夢の5連休だ。
疲れた体に鞭打って辿り着いた我が家は、家を出た時と全く変化のないマンションの一角にあった。これで無くなっていたりしたら、ホラーだ。もしそうなっていたら即刻、不動産屋に文句を言いに行かなければいけない。それから実家に連絡を…。何だか有り得ない想像を頭の中で繰り広げてしまった。これは相当疲れている、早くベッドに横になろう。そんな気持ちでドアを開け、なだれ込むようにわたしは帰宅した。
「や、おかえりなまえ」
「は…?」
やたらと爽やかな声に反応して顔を上げれば、疲れた目には痛い真っ赤な服を着た男性が笑っていた。思わずドアを振り返る。戸締まりはしていた筈だし、ここはマンションの二階だ。窓から入り込める訳が無い。
「…っ!?」
まじまじと爽やかな男性を見て、初めて気がつく。真っ赤な服に同化していて今まで分からなかったが、その赤がただの赤でないことに。まるで真っ正面から浴びたように純粋な赤ではない赤黒くなった何かが服に、顔に、付着している。それから、彼の腰に下がっているのは大きな鞘だ。ここから見るぶんには鞘だけで中身は無いように見えるが。
「あ、これ?俺の血じゃない、俺は怪我なんかしてないよ」
視線から感じ取ったのか、何でもないというように彼は笑っている。
「俺はエース。ハートの国の元騎士だ、君に会いに来たよなまえ」
「ハートの国?」
聞いた事もないような国名が彼の口から飛び出してきた。
というか、騎士って言ったこの人。…頭の中が可哀想な、人なんだろうか。
「そう、俺が前にいた世界。こことは全然違う世界だよ」
悪意の片鱗も見られない顔だ、心理学を大学で少しかじっているからなんとなく分かる。
嘘はついていない、そんな顔。信用なんかしてはいけないと分かっているのに、わたしの心はどこかで彼は安全だ、とOKサインを出している。しかも絶対的な安全のサインだ。この人はわたしを殺さないと、自身が確信している。
「…土足禁止なんですけど」
口をついて出てきたのは、こんな言葉だった。
「土足禁止?」
「あなたの世界ではどうかしりませんけど、こっちではそうなんです」
「へえ、そんなルールがあるのか…。ごめんな?」
ルール、その単語の発音だけ他の言葉と違って聞こえたのは一瞬だった。
…………………
…………
……
エースさんは本当に違う世界から来たらしい。わたしが思う常識と、エースさんが思う常識の差がいい例だ。大量に付着した血液について問いただせば、「顔なしを切っただけだから問題は無いぜ?」とあっさり人を殺したと、認めてしまう。それに、どうやって来たのかを聞けば無理やり入ったと言ってエースさんが差した壁にはもやもやした霧のようなものが充満する空間が垣間見える。閉じないようにだろうか、刺さった大剣が存在していたりと、わたしのキャパシティはそろそろ限界を迎えそうだった。
「とりあえず、どうぞ」
ガラガラと洗濯機が回る音をバックに、わたしは淹れたての紅茶を差し出した。
「ありがとう」
そう言って笑うエースさんは現在あの返り血付きコートを着ていない。流石にあのままの格好でいられると、わたしが精神的にキツいので洗濯をさせてもらっているのだ。
「そのうち元通りになるのに」
と言って渋る彼に一喝したのは、数分前の事だ。
「なまえは紅茶派なんだな」
「紅茶派、とまではいかないですけど…」
コーヒーだってわたしは飲む。それより、何でわたしは普通に侵入者と優雅にお茶なんかしているんだろうか、普通なら有り得ないというのに。
「ねえ、聞いてる?」
さっきもそうだった。無自覚のOKサイン。無意識に受け入れている自分に恐怖を感じていたせいか、すっかり周りの音が聞こえなくなっていた。
「なまえ、俺の話聞いてる?」
一人の世界に浸っていたわたしの意識を、エースさんの声が引きずり上げる。
「う…わっ!?」
「人の顔見て驚かないでくれよ、なまえ。それに今結構大事な話してたんだぜ?」
「驚くなって、いきなりエースさんの顔がドアップだったら誰だって声をあげますよ!」
本人が自覚しているかどうかは知らないが、エースさんは端正な顔立ちをしている。そんな顔がいきなり目の前数センチの所にあったら、誰だってびっくりするはずだ。軽く咳払いを一つして、話題を切り替える。
「それで、何なんです?」
不満そうな顔をしているエースさんに視線を向けて、話の仕切り直しを促した。
「俺をここに住ませてくれ」
「は…?」
本日二度目になる、驚愕から漏れた上擦った声。ニコニコと効果音がついた笑顔であっさりととんでもない発言をされてしまった。
「着の身着のまま来ちゃったからさ、何にも持ってないんだー俺」
ニコニコ。
読めない、どうやら厄介な人を懐に抱き込んでしまったみたいだ。
「…住ませない、とか言ったら斬るんでしょう、わたしを」
「うん。もしかしたら君を斬ってしまうかもしれないな」
さっきから変わらない笑顔。エースさんとは数十分という短い付き合いだが、もうその顔に浮かべられた笑顔が爽やかには見えなくなってしまった。
笑顔の仮面。
「な、いいだろ?」
殺気のような物を滲ませて詰め寄ってくるエースさんを向こうの世界にわたしが押し返せる訳もなく、
「勝手にしてください…。ただし怪しい真似をしたら警察呼びますからね!」
結局折れたのはわたしだった。