アスペラル | ナノ
7


 顔を上げなさい、というシュルヴェステルの言葉にようやくリカードは面を上げた。臣下としての意識が強い彼は、王の許しがなくば決して頭を上げようとはしなかった。いや、臣下ならば当然の態度だろう。
 しかし、一方でリーンハルトは頭を下げるという行為はほぼしなかった。式典など公の場ではするものの、こういった人が少ない場ではまずしない。
 リカードにしてみればリーンハルトの態度は、まさに敬愛する王への不敬。苛立ちしか募らなかった。

「遅かったね、シルヴィー」

 そんなリカードの気持ちなど露知らず、リーンハルトは軽口をたたく。
 リーンハルトの態度はいつも通りであり、そんな彼を許可している王は「ああ」と頷いた。

「王都と……叔父上と連絡を取っていたからね。私とハルトが王都を離れてしまったせいで、叔父上には任せっぱなしで悪い事をしてしまったな。でも恙(つつが)無いという報告を受けた。問題はないだろう」

 シュルヴェステルは安堵の笑みを浮かべた。
 今回の遠征で、王と三番目の地位にあたる軍師が国の中枢を離れている。結果的には国で二番目に偉い宰相――王の叔父が王の居城で留守番を仰せつかっていた。

「へえ、セオドール宰相は真面目に仕事してるんだ」

 意外そうに、だが楽しげにリーンハルトは笑う。
 それもその筈、彼のよく知っている宰相はいつも真面目に仕事に取り組む様な男ではないからだ。

「残念ながら、部下三人がかりで押さえつけてやっとだそうだ。しかも、横にはいつも酒瓶があるらしい」

「相変わらずの呑んだくれ親父だね」

 その光景が容易に想像出来たリーンハルトは苦笑した。
 酒を飲むわ、女遊びはするわで、宰相セオドールは部下達を困らせる煩悩の塊の様な男だった。身内には気前のいいオッサンといった感じで、リーンハルトは結構好きだった。
 一方で、リカードは宰相に苦手意識があったが。

「まぁ、問題はないだろう。叔父上もしっかり番をすると言ってくれている」

 素行には問題があるものの、王は宰相に絶対の信頼を寄せている。叔父と甥の関係でもあるが、歳は十歳程しか違わないせいか、子供の頃からは兄の様な存在だったらしい。シュルヴェステルの政権が盤石なのは、王と宰相の信頼関係が強固なのが要因の一つであろう。
 こうしてシュルヴェステルが国の中枢を離れていても、連携がとれているのがその証拠である。
 リーンハルトもリカードも、そしてベルナルドさえも宰相が王都にいるならば大丈夫だろうと安心している。

「それでハルト、様子はどうだい?」

「問題ないよ。夜襲されるなんて露知らず、夜番以外は寝たみたい」

 シュルヴェステルが眼下の街を俯瞰すると、多くの民家からは明かりが消え、暗い街が広がっていた。全体的にしんと寝静まっていた。
 今回の標的である見世物小屋も静まり返っている。見回りの火がちらほらと見受けられるが、起きている人間は少ないだろう。

「それでハルト、今回はどう見る?」

 その声音にはリーンハルトを試すような調子が入っていた。リーンハルト個人ではなく、軍師のリーンハルトを。
 王の挑発的な問いに、リーンハルトは臆することなく口角を上げた。

「大きめな街だと思ったけど守備は民兵程度――すぐに突破できる。見世物小屋には腕が立ちそうな用心棒がいるっていう報告があるけど、夜襲すれば殆ど相手にはならないと思う。何人か腕の立つ奴を囮にして同胞の救出を優先、目眩ましにリカードには天幕に火を放って貰う」

「火を放てば街には広がるんじゃないかい?」

「今日は風がないし……街まで燃え広がる事もない。俺の読み通りなら、今晩は風がない」

 ふむ、とシュルヴェステルは目を細める。こういう時は彼が何を考えているのか全く分からず、リーンハルトは緊張の面持ちで次の言葉を待つ。
 だが今日彼が読んだ気象については自信があった。

「……夜襲戦での留意点がある筈。それの対策はあるのかな?」

 あえて遠回しに「留意点」と言ったのは彼を試して楽しんでいるに他ならない。王は表面上はにこにことしている。
 まだ軍師見習いの時、師に問題を出された時よりも緊張した。
 黙々とリカードも彼らの話には耳を傾けていた。これからリーンハルトには命を預けるのだ、適当な事を言われては堪ったものではない。

「薄暗い所での、入り乱れての夜襲……同士討ちが懸念されてるって事だよね? それについては、皆に白い布を配ってる。それを右腕に巻いてる者が『仲間』だという目印にしようと思って。それから魔術は基本禁止、白兵戦のみ」

「……成程」

 納得したのか、うんうんとシュルヴェステルは何度か頷いた。そしてリーンハルトに背を向ける。

「ではハルトに采配は任せる。私はベルと共に夜食を食べてくるから、後は頼んだよ」

 そのままベルナルドを引き連れてシュルヴェステルは歩き出した。
 小さくなっていく王の背中を見つめながら、リーンハルトは安堵の溜息を吐く。自信がないわけではなく、軍師として初の仕事の為、漠然とした不安があるのだ。
 だが王からは「任せる」との言葉。それは期待と受け取っても良いという事だろう。

「リカード、何人か集めるよ。シルヴィーの食事が終わるまで手筈を整える」

「……分かった」

 一秒でも無駄には出来ない。リーンハルトとリカードはすぐさま準備に取り掛かったのだった。
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