28
「ありがとう」の次は「じゃあね」だった。
呆然とするロゼッタの体をノアは突き放した。
ノアの詠唱は短縮している上にかなり速い。慣れと彼の技術が成せる技だろう。
遠回しに彼は逃げろと言ったのだ。あのノアが言った事自体に驚きだったが、ここでロゼッタに逃げろと言われた事も驚きだった。
だが、そんな事をすればどうなるかはロゼッタでも瞬時に分かった。激しい抵抗をすれば、いくら商品とはいえどうなるか分からない。最悪の場合男達は商品を諦める、つまり死ぬだろう。
氷の槍が舞った瞬間に視界の隅では、人攫いの男達が剣を抜いてノアに向かっている。彼らの間合いではノアの次の術が間に合わないのは明白。
「ノア……!」
悲痛な表情でロゼッタは叫ぶ。
彼はあの時何を思ったのか、何を考えて「死ぬ気」に至ったのか、ロゼッタには分からない。だが、考えるよりも先にノアを助けるべきだと身体が判断した。彼の逃げろという言葉は無視する事になるが、そんなものロゼッタには嬉しくとも何ともなかった。
気付けばノアの前に踏み出し、男達の剣を一身で受け止めようとしていた。
男達の剣先が目の前に迫り、恐怖にロゼッタはぎゅっと目を瞑る。
*** それは護りたいなどという崇高な意味があったわけではない。
強いて言うなれば、どちらが生き残った方が得かという損得勘定のようなものだ。ノア自身、彼女が死んで自分が生きていても誰も喜びはしないだろうと思っていた。それならばせめて生かすべきはロゼッタ、それだけだった。
そう、それだけだ、とノアは自分に言い聞かせる。
彼女に何か期待をしているわけでも、何かを思ったわけでもない。ただ、いつも通りに自分本位に考えれば良いのだ。それが自分だから。だが自分本位でも良いと思えた。
それで彼女が助かるならば、と。
(……よく分からない)
ノアは自分の矛盾した感情に苦笑した。ただ彼女に初めて言った礼は本心だ。
二歳の頃から閉ざされたノアの両の目を彼女が再び開かせてくれた。そして見せてくれた世界は一層眩しかった。世界も眩しかったが、本当は手を差し伸べてくれた彼女も眩しいと思った。
ずっと手を伸ばしても届かなかった微かな天上の光。
その手をあっさりと簡単に掴んで掬い上げてくれたのはロゼッタだ。
彼女ならば助けても良いと思える。それに、彼女ならばノアが死んだらきっと泣いてくれるだろう。それを考えると、少しだけ胸が軽くなった気がした。
「ノア……!」
残り数秒の命をカウントしていると、耳につくロゼッタの声。揺れる銀髪がノアの横を通り過ぎて彼の前に背を向けて立ち止まる。
「ひ、めさま……」
こんな筈じゃなかった。
どうして彼女が何故自分を庇っているのだろうか。
違う。違う、こんな事を望んでいたわけじゃない。ノアは大きく瞳を見開いた。全ての出来事は一瞬の筈なのに、この数秒の出来事は目の前をゆっくりと駆けていく。それなのにノアが咄嗟に伸びた手は彼女に届かなかった。
どうして、と一秒の間にノアは何度も自分に問うた。
そして初めて人に対して「死なないで欲しい」と切に願ったのだった。
*** 正直もう今回ばかりは駄目だとロゼッタは思った。
今まで危険な目には何度も遭ってきた。その度に自分では制御できない魔術か、誰かが助けてくれた。しかし、街から離れたこんな所で誰かが助けれてくれるわけがない。しかも先程の付加魔術のせいか、もう魔力のほとんど使い切ってしまっていた。自分でも何となく分かるのだ、魔術が今使えないと。
固く目を瞑りながら、ぼんやりと「痛いのは嫌だな」と考えていた。出来る事ならば一瞬で済ませて欲しいものだ。
しかし、いくら待っていても切られたり刺された様な痛みは来ない。
「無事かロゼ……?」
おかしいと思いながら恐る恐る目を開くと、聞き覚えのある声。
「……私って、変なとこで運だけは良いみたいね」
そして腰が抜けたロゼッタはその場にぺたりと座り込んだ。
ロゼッタに剣が届かない筈である。いつの間にやら黒髪の剣士――ローラントが間に入り、男達の剣を簡単にいなしていたのだから。先程までは恐ろしく見えた男達もローラントの目の前ではまるで赤子だった。
「何だお前は……!」
男の一人が威嚇する様に叫ぶ。ローラントは少しだけ顔をしかめ、一度剣を弾き返した。
「お前達こそ誰だと問いたい。それにその剣……誰に向けていると思っている」
ローラントの声音が一段低くなる。背を向けられていて表情は見えていないのに、ロゼッタは声だけで背中がぞくりと寒くなった。
元騎士団長なだけはある。普段は微塵も見せない威圧感が今はたっぷりと言葉に含まれていた。真正面から睨まれた男達は一歩引いて怯んでいる程だ。
「ロゼ、加減はいらないだろう」
剣を片手に、いつになく働く気満々のローラント。どうやら男達がロゼッタに剣を向けている事に大層立腹している様だ。だがロゼッタは助かった安堵から脱力し、もう彼を止める気力すらない。
「……死なない程度にね」
ロゼッタは渋い表情でそれだけぽつりと呟いたのだった。
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