15
それからだった、ノアが狭い空間に安堵する様になったのは。広い空間は怖い、それまでの人生経験からそう学んでいた。
檻はノアを捕らえるもの。それでいて、彼を守ってくれるものでもあったのだ。
「でも、待ってノア。どうして魔術を使わなかったの……?」
ずっと黙っていたロゼッタだが、ようやくここで口を挟んだ。
彼の話を聞く限り、彼はずっと長い間虐げられ、従順にそれに従ってきた。しかしノアは魔術が使えるはず。それが使えれば、人間の手からなど簡単に逃げられるだろう。魔術にはそれだけの力がある筈である。
「……魔術は使えたよ。勿論。使えたけど……使えなかった」
早くに家族から離されたノアが唯一覚えている事は二つある。ノアという名前、そして魔術である。父か母が教えてくれたのであろう。ほんの基礎だったが、氷を化現させる程度は幼いノアでも使えた。
「……姫様は、帰る場所がないって気持ちを想像できる?」
幼かったノアも、魔術で飼主を殺せば良いと思った事はある。だが思っただけで、それを実行しなかったのは「その先」を想像してしまったからだ。
檻から放たれた獣はどこへ向かえば良いのか。一度牙を抜かれた獣は野生の群れにも自力で戻れないのだ。
アスペラルへの帰り方も家の場所も知らない、父母の顔すら覚えていないノアは、自分から檻を出る事すら止めてしまった。檻から一歩踏み出す事に恐怖した。
「……ごめんなさい、分からないわ」
何度想像しても、ノアのその感情はロゼッタには分からなかった。分からない事に申し訳なさそうにロゼッタは素直に謝った。
教会に住んでいた頃は、そこが帰るべき場所だと思っていた。そして今は離宮が、帰るべき場所。人生で大きな変化はあったものの、ロゼッタにはいつも帰る場所はあったのだ。
「だろうね。僕にとって檻の外の方が怖いよ……途方もなく、広い」
檻の世界は途方もなく広く、そんな広い中に自分が帰るべき場所がないと知ると、虚無感だけが残った。それがノアが広い空間を恐れる理由の一つだった。
だからアスペラルに帰化したノアは、今でも地下室という檻に自らを閉じ込める。
自ら檻に入ることで安堵し、外敵から自分を守る為に。
(ノアの癖は……ただ、自分を守る為に閉じ籠ってるだけだったんだ……)
ずっと実験が好きで外に出たがらないのだと思っていた。勿論、それも理由の一つなのだろうが、根本的な理由はまた別だった。
彼の話を聞いていて、ようやく引き籠る意味をロゼッタは理解出来た。
「……話を戻すと、それから一年位僕は見世物小屋にいた。それまでの生活で見世物小屋は一番楽だったよ。公演の時に魔術を見せるだけで、ご飯と寝床が貰えたから」
たまに悲鳴を上げられたけどね、とノアは薄く笑った。
見世物小屋の生活はノアにとって今までで一番良いものだった。ご飯の量は少なかったが元々少食のノアにはどうでもよく、雑技を行う人間達はノアを嫌っていた為他人に干渉される事がなかった。
月に何度か行う公演では、ただ檻に入ったまま氷を化現させたりするだけで済む。氷を出せば人間達には悲鳴を上げられたり、好奇の目で見られたりしたが、檻の中に入っているという事実が彼を安心させていた。
そして夜は檻に入ったまま、月夜を見ながら眠りについた。助かろうなんて思っていなかった。だから余計な希望を持たずに済んだ。
「そうだ、その時に……弟に、出会った」
「アルブレヒトに……?」
ノアが「弟」と認めているのは一人しかいない筈。しかし、それでは人間の国の、しかも見世物小屋で出会ったみたいである。
この先を尋ねるべきか迷っていると、ノアは勝手に口を開いた。
「ああ、僕より少し先に買われたらしいよ。といっても、弟の場合は見世物じゃなくて肉体労働だったけど」
「待って……じゃあ、アルは……」
「あれ? 知らなかった? 弟も奴隷だったよ」
平然と言い放つノアだが、少なくともロゼッタは初めて知った事実であり、こんな形で知りたくなかった事である。
よくよく考えれば、アルブレヒトは過去の事を聞くと少し言葉を濁していた。この真実を知られたくなかったのだと、今更ながらロゼッタは気付いてしまった。
そして、アルブレヒトは「整理できたら、いつか自分の事を話す」と前に言ってくれた。だから待っているとロゼッタは約束したのだが、どうやらその約束を破る羽目になったようだ。
勿論、ノアに悪気があったわけではないのだから責められない。
「それは、知らなかったわ……」
「だろうね。弟は僕と違ってあの時のこと、思い出したくないみたいだからね」
それは当然の反応の様にも思えるが、既に感覚が麻痺しているノアには理解出来ないようであった。
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