9
*** その記憶がどれ程昔のものか、もう定かではない。
だが、言葉もまだ悠長に喋られない程には幼かったと思う。舌も回らず、手足も今程自由に動かなかった。
「……ノア」
しかし、それでも自分の名前だけは忘れていなかった。その名前を呼んでくれた人が、父かも母かも、声も顔も、何も思い出せないけれど。
それでも子供ながらに少しは幸せだった、とノアは思う。
あの時は人らしく家族というものが好きだったのだと思えるからだ。
*** 気付いた時には心地良い揺れだった。
しかし何故揺れているのだろうか、そんな違和感が拭い切れずにロゼッタは上体を起こして呆然とする。
そこは薄暗い空間だった。空間の高さは座って少しだけ余裕がある程度。広さはロゼッタが両腕を広げられる程だった。本当に狭く、暗い場所だ。当然、四方は壁に阻まれていた。
これは予想だが、多分大きい木箱の様なものに閉じ込められているのだと思う。
どうしてこんな所に、と考えたところでようやく気を失う前の事をロゼッタは思い出した。
(……そうだ、アダリナ……さんを道案内して、貰ったカードを見たら気分が悪くなって、それでどうしたんだっけ……?)
カードの内容を思い出そうとすると吐き気がしそうな程、頭の中がぐわんぐわんと揺さぶられる気がした。頭を片手で押さえ、ロゼッタはそれ以上考えるのを止める。
ふと、床にもう片方の手を着くと、何か柔らかいものに手が当たった。何だろうかと当たったものを目で辿って行く。
「ノ、ノア……!」
薄暗い空間をよく見れば、隣に眠る様に気絶しているノアがいた。目を凝らせば胸は上下に動いているので、生きている事は分かる。だが白い瞼は固く閉じられていた。
「ノア……ねぇ、ノア……!」
焦ったロゼッタはノアを揺さぶる。
自分が気を失っている間に彼の身に何かあったのではと考えると、恐怖で指先が震えた。
あの女性を道案内すると決めた時、ノアは忠告をしてくれた。それにも関わらず、ロゼッタは警戒心も持たずにその忠告を蔑ろにした。大丈夫だから、と確証もない自信を持って。
「ノア……!」
今頼れるのはノアだけだ。そんな彼がこの状態ではロゼッタ一人。不安と恐怖で一杯だった。アルセルの一件で少しは強くなっても、それでも恐怖心は消せなかった。
「んん……かあ、さん……?」
するとノアが呻いた。意識を取り戻しつつあるのだろう、ぴくりと体も動いた。
彼の口から「母」という単語が出てくるとは思ってもいなかったが、意識を取り戻し始めたのは純粋に嬉しかった。
ノアの名前を何度も呼びながら、ロゼッタは彼の顔を覗き込んだ。長い睫毛の隙間から、深緑の瞳が少しだけ姿を見せた。
「ノア、良かった……気が付いてくれて」
安堵の息を漏らし、起き上がったノアの肩にロゼッタは顔を埋めた。彼がそう簡単に死ぬとは思っていないが、何が突然訪れるかは分からないのだ。無事であった事をただただ嬉しく思った。
起きたばかりのノア自身は何が起こっているのか分からず、頭を押さえながら辺りを見渡した。
大人二人には少し狭い薄暗い空間に二人きり。彼も何が起こったか分からず、今居る空間と自分に縋り付いているロゼッタを交互に見比べ、夢現だった状態から現実に引き戻されたのであった。
「此処、は……?」
「よく分からないわ。気付いたらここだったんだけど、何が起こったのかしら。アダリナさんはどこなの……?」
混乱して落ち着かないロゼッタとは対照的に、ノアは冷静に今までの事を思い出してみた。
ロゼッタのお人好しが炸裂して見知らぬ女性を道案内したのは覚えている。そして目的地直前で、変なカードを二人は見せられた。そうだ、とノアは面を上げる。
「あれは……魔具だった」
「魔具? そんなのあった?」
「……姫様が気を失う直前、あの女に変なカード見せられてたでしょ。あれは催眠の呪の一種が掛けられた魔具だよ。あれを見たせいで気絶したんだ、僕らは」
そうノアは忌々しく吐き捨てる。あんな簡単な手に引っ掛かるとは、と。
カードの事は覚えていたので、ロゼッタは「あれが……」とはっとした様だった。
「でも何で……? アダリナ、さんとは初対面のはずよ?」
恨みを買う様なことをした覚えはない、とロゼッタは困惑した表情を浮かべる。
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