8
***「兄さーん」
背後から、悪魔の声がした。
だが関わってもろくな目に遭わないのは予測済み。というより既に何度も体験済み。リカードは足早にその場を去ろうとした。
「兄さーん! いつも目付き悪くて不機嫌そうだけど、実は涙脆くて目付きの悪さで子供に泣かれるとすぐに落ち込んじゃうシスコンでムッツリスケベなリカード兄さーん!」
「黙れ死ねアロイス……!」
そしてつい後ろから叫んでくる男――アロイスの策略にまんまと嵌るのも毎回の事だった。
根も葉もない(と本人は思っている)事を城の廊下で叫ばれ、リカードは立ち止まって後ろを振り返った。リカードの後ろから来たのは橙色の短髪に文官の衣服を纏っている男。その瞳はリカードと同じ赤だった。
苛々と眉間に皺を寄せるリカードとは対照的に、アロイスという男は手をひらひら振りながらにやにやと笑っていた。
「やぁ兄さん、それ久々に会った弟に向かって言う台詞? そんな過剰に反応するからハルト様から弄られるんだって」
そう、彼は正真正銘リカードの実弟。名をアロイス=アッヒェンヴァル。歳は二十歳で城では文官として働いている。性格はリカードとは全く違い、陽気で楽しい事が大好き。
特に兄リカードを弄るのは幼少の頃から好きな遊びだという。
「戦争行ったって聞いたから一応心配してやってたんだけど、生きてたんだ」
「……何でそこで上から目線なんだお前は」
今まで一度たりとも弟達を可愛い弟だと思った事はないが、可愛げのない弟にリカードは大きな溜息を吐いた。
「用事が無いなら行く俺はもう行くぞ。忙しいんだ」
目の下に暈を作っている彼は疲れているのだと一目で分かる程だった。
それもそうだ、城に帰って来てからもリカードは休まずに働いている。後片付けは膨大な量。それに廊下を出歩けば大臣共がこぞって根掘り葉掘り聞きに来るので、ゆっくり廊下も歩けやしない。
人通りが少ない廊下を選んで、まるで隠密の様にリカードは移動を繰り返していたのだ。
「ちょっと待って兄さん。聞きたい事があるんだ、重要な事なんだ」
リカードが歩き出そうとしたところ、真顔でアロイスは呼び止める。
珍しいアロイスに、つい怪訝そうな表情を浮かべつつもリカードは立ち止まった。
「……何だ? 父上から何か報せがあったか?」
アロイスが双子の兄とよく手紙を交わしているのはリカードも知っている。時折、その手紙には父親からの伝言や近況報告が含まれている場合もあった。
「俺もう一カ月以上、ラナに会ってないんだけど……!」
「仕事があるから行くぞ」
あまりにも真面目な顔付きになるので話を聞いてやったが、付き合っているのが馬鹿馬鹿しくなりそうなのでリカードは踵を返す。しかし、後ろからアロイスにがっしりと掴まれる。
「ちょっと、兄さんは知ってるのか!? ラナの……俺の天使の居場所をっ……!!」
「気持ち悪いぞお前……知ってるが言わないからな」
重度のシスコンを発症しているこの弟は正直気持ち悪い、とリカードは思う。アロイスの双子の兄もこれまたラナを溺愛しているので、実家に帰るとシスコンが二倍で更に気持ちが悪い。
今更なのでもう慣れてしまったが。
「どうして……! まさか兄さんラナを一人占めにする気じゃ……!?」
「阿呆か」
「返せ! 俺の天使を返せ……!」
「詰め寄るな……!」
リカードを掴んで揺さぶって離さないアロイス。彼曰く昔からリカードとラナは仲が良かったので悔しいらしい。
ふと、カサリと紙が擦れる音がした。気付けばアロイスはどさくさに紛れて、リカードの軍服の中に紙きれを押し込んでいた。しかしアロイスが意味も無くこんな事はしない。
リカードは顔を顰めた。
「……俺はお前にとって都合のいい伝書鳩か」
周りに聞こえぬ様にリカードは呟いた。
もっと違うやり方もあっただろうに、何とも遠回りな方法を使う。しかし通り掛かる人々は二人のある意味微笑ましい会話にしか目が行かないだろう。少々派手だが、目晦ましにはなったのだ。
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