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(これは、最悪の事態ね)
もし神がいるならば、神は完全にロゼッタを見放したらしい。
それ程後方から来た人物は厄介な相手であり、彼女の戦意を大幅に削ぐ程度には会いたくない人物であった。
それとは対照的に、衛兵達は「彼」の登場に安堵の表情を浮かべた。
「ローラント様……! 魔族が逃げました!」
ロゼッタの後方に居る人物――ローラント=ブランデンブルクは無表情に双方を見比べた。無表情だがこれは彼なりに驚いているのだ。
それもそうだ、廊下を歩いていたら監禁されていた筈のロゼッタが衛兵達と剣を向け合っていたのだから。彼が多少なりとも驚くのは無理も無い。
「……まさか、今日になって逃げ出すとはな」
彼の口調はまさに呆れている。表情に出しはしないものの、言葉に妙な棘が含まれていた。
「私だって、まさかこんな時にあなたに会うとは思ってなかったわ。朝っぱらから廊下に居るなんて、よっぽど暇なのね」
ロゼッタは苛つきが隠せず、ローラントに対してあからさまな悪態をついた。戦意が大幅に削がれたとはいえ、ここで諦められない。彼女の手は未だ剣を握ったままだった。
剣を持っていることについてローラントも気付いているだろうが、何も触れる事は無かった。
しかし、こうして悠長に喋っている間にも焦りは募る。ローラントと廊下で遭遇する事は正直想定外だったのだから。
逃げようにも、袋のネズミ状態のロゼッタには逃げ道がない。
「……仲間を待つのではなかったのか?」
「頼ってた部分はあったけど……待つ気はないわ。いつまでも囚われのお姫様でいるわけにいかないし……どうせなら、自分で皆の元へ行くわ」
「無茶を……いや、無謀と言うべきか。待っていれば良かったんだ」
確かに前のロゼッタだったらずっと悩んで行動なんかしなくて、心の奥底ではアルブレヒト達に頼っていた。
ローラントの言う事は当たっている。結果は火を見るよりも明らかで、確実に彼女の行動は無謀なのだ。だが、どこかでまだ自分にも出来る事はあるとロゼッタは思っている。
「ええ、無茶だし無謀よ。結局考えが至らない部分もあるわ。ローラントに会うなんて、不測の事態に陥ったわけだし」
ロゼッタは剣の柄を握り直す。大分汗で柄は湿っており、うっかり手から滑り落としそうであった。
それでも剣先は下ろさなかった。つまりは降参はしないということだ。
「でもずっと悩んで何も行動しないで、流されて……納得出来ない結果になるよりはマシでしょう。これから王族になるなら、余計寄り掛かっているだけじゃいけないもの」
「そうか。それが、君の答えなのか」
そしてローラントはゆっくりと腰の濃青の鞘から剣を抜いた。ぬらりと刀身が銀色に光り、ロゼッタを写した。
ロゼッタは息を呑んだ。ローラントの剣技がどれ程のものかは実際に見たことは少ししかないが、師団の団長である彼が並大抵の男とは思えない。正面からぶつかれば確実に斬り捨てられるだろう。
ロゼッタは視線を前方に移した。そちらには衛兵二人が剣を構えてこちらを見ている。
(絶体絶命、か……)
冷や汗が額を流れて前髪を濡らす。だがそんな事も気にならない程、ロゼッタは神経を集中させていた。
衛兵二人はどうやらすぐに飛び込む事はなさそうだ。彼らはローラントの動向を探っている様で、ローラントの動き次第といったところ。ローラントは相変わらずの無表情で何を考えているか分からない。こういう時、彼の表情は一層酷薄そうに見える。
つまりは、ロゼッタかローラントがアクションを起こさない限り、この場は固まったままなのだろう。
ロゼッタは前方後方から意識を逸らすことはないが、切っ先をローラントに向けた。
「そんな剣で切れると思っているのか」
呆れ気味に呟くローラント。ロゼッタはむっとした表情をするが、すぐにそれが彼女の剣を言っているのではないと気付いた。
廊下で適当に拝借した装飾過多な剣。しかし、彼の指しているのはそれではなく、彼女の剣を持つ手が震えていることだった。
自覚は無かった。けれど、ロゼッタ自身が思っている以上に彼女は恐怖を感じているのだろう。カタカタと震える事は正常な反応で、彼女の正直な気持ちを反映していた。
「……悪いが、時間が無い。こちらも不測の事態だったからな」
そう言ってローラントが踏み出した瞬間、ロゼッタは剣を握り締めたまま咄嗟に目を瞑ったのだった。
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