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「戦争、アルセル公国の南東に近いらしいよ」
本当の事を言えば、まだノアはロゼッタの気持ちを理解出来たわけではない。理解出来ていない部分の方が多いだろう。大切なものなど無いのだから、失う恐怖も無い。
だが、ロゼッタに家族が大切な感覚というものを教えて貰ったので、こちらもそれなりの対価を用意しなくてはいけないという結論に彼は達した。それに元々教えないというわけではない。最初から聞かれれば教えても良いと考えていた。
ノアの突然の告白にロゼッタが息を飲むのがすぐに分かった。
「……文官さんはまだ詳細が来てないから分からないって言ったけど、もしかしたら姫様が暮らしてた村近いんじゃない?」
「みんな……」
ノアは目を細めながら、彼女はそのうち倒れてしまうのではと思っていた。彼女の全身の力が抜けそうになっているのが手に取る様に分かる。
泣いているのだろうか、肩も少しだけ震えていた。だがノアは心の中で、泣くのは面倒だから勘弁して欲しい、と悪態をつく。女が泣くのは鬱陶しいもの以外の何物でもないのだ。
だが、元からノアは泣かせるつもりはないし、むしろもっと違う「提案」をするつもりだった。そう全てはシリルから戦争の話を聞いた時から。
「……姫様、村に戻りたい?」
ノアの言葉にはっとしてロゼッタは顔を上げる。泣いてはいないが、相変わらず顔色は優れない。それでもノアから視線を逸らせずにいた。
全ては予想通り、ノアは少しだけ口元に弧を描きながら席を立った。
「どういう意味……?」
「そのまんまの意味だよ」
ゆったりとした足取りでノアはロゼッタに寄っていく。長い髪から晒された美しい彫刻の様な顔が、徐々に彼女に迫ってくる。
だが、まるで縫い止められたかのようにロゼッタの足はそこで動けなくなっていた。じっとしていたら、あっという間に二人の距離は近くなっていく。ロゼッタは間近にある青い瞳を見ながら固まっていた。
「……正直、家族の情なんて僕には理解出来ない。だけど、そんなに村の皆に会いたいなら会わせてあげるけど」
いつもは無表情な彼の顔が、目が少し細められて笑っている様にも見えた。それだけでも珍しいというのに、彼の白い指がロゼッタの顎を掴んで痛い位に顔を上に向けさせる。
彼の申し出はロゼッタにとっては嬉しい事だ。だが逆に怖いと思ってしまうほど、彼の考えている事は分からなかった。
「どう、やって……?」
声が少しだけ震えながら、ロゼッタは必死に声を絞り出す。目の前の青年はよく知っているようで、まるで知らない人。彼の指はひんやりと冷たかった。
「単純な話だよ。その村まで僕が連れて行ってあげる」
それが一番皆に会える確率が高い話だが、どうにもロゼッタには腑に落ちない部分があった。
日がな一日地下室に籠って研究三昧なノアが、何故わざわざオルト村まで連れて行ってくれると言うのだろうか。彼が人間の国に興味があるとは思えない。忠誠心や愛国心が強いわけでもない。彼の真意が全くと言って良い程不明なのだ。
「……目的は何?」
わざわざロゼッタにそんな申し出をする位だ、何かしら彼には目的がある筈である。彼の興味を惹くような何かが。
だが、そんな事ないよ、とノアは薄らと笑った。
「目的なんて大して無いよ」
「なら、どういうこと? ノアにとって利益になる事が無いじゃない」
静かな室内で二人の間からは張り詰めた空気が流れつつあった。今だにノアは彫刻の様な不気味な程に美しい笑みを浮かべたまま、ロゼッタを見下ろしている。
とりあえずロゼッタが分かるのは、これはノアの優しさでは無いということだ。彼は人が困っているからといって、助けてくれる様な青年ではない。自分のやりたい事を優先させる利己的な一面がある。目的は知らないが、何かしら彼の益となる事が発生する筈だ。
果たして信じて良いものか、それだけがロゼッタの脳内を駆け巡っていた。
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