20
「待ってハチ!」
前方を白猫は軽快に走っていく。まるで、ロゼッタを奔走させて楽しむかの様に。
唯一幸いなのがいつものドレスではない事だろう。今日は剣術稽古があると思っていたので、朝からズボンとベストを着ていた。足元も高いヒールではなく、黒い皮靴。だが、所々ぬかるんでおり、走り辛い事には変わらなかった。
一度離宮の門の外に出てしまうと、外は一面の緑。彼女達は正門から出たわけではないので、既に走っている場所は道ではない。獣道の方がまだマシだと思える位の草むらだった。
「走り辛い……誰かに言って、手伝ってもらうべきだったかしら」
だが、こんな森でハチを見失えば見付からなくなる可能性だってある。それに森を抜ければ町などがあるが、それ以上は捜索が更に難しくなるだろう。
もしハチがいなくなってしまえば、ハチを可愛がっているアルブレヒトが悲しむのは容易に想像出来る。それだけはどうしても避けたい気持ちであった。
(ううん、大丈夫よ。探して連れ帰るだけだもの)
それ位なら自分でも出来るわ、とロゼッタは自分に言い聞かせた。わざわざ誰かを呼んで手伝って貰って、他人の手を煩わせるのも彼女は嫌だった。
(だけど、すばしっこいわね……)
相手は身軽な猫なのだから当然なのだが、なかなか捕まらない。ロゼッタが捕まえようとすると、ハチはひらりと身をかわしてまた走り出す。
ハチに向かって伸ばされたロゼッタの手は、虚しくも空を切った。
「待ちなさいハチ!」
ハチが一番に懐いているのはアルブレヒトだが、彼女に決して懐いていないわけではない。アルブレヒトの次にハチを可愛がっており、二番目に懐かれていると彼女自身は思っている。
だが、今日は違うらしい。猫でも久々の離宮の外は、はしゃいでしまう様である。
ロゼッタは溜息を吐いた。捕まらないハチも原因の一つなのだが、走り辛い上に泥が撥ねて黒い皮靴を汚してしまったというのもある。後でグレースや用意してくれたラナには謝らなければ、と彼女は思ったのだった。
「姫様……!」
すると、後ろから呼び止められたロゼッタは足を止めて振り向いた。まさか、こんな所で誰かに呼ばれるとは思っていなかったからだ。
「ラナ!」
そこにいたのは、黒いスカートを持ち上げて必死にロゼッタを追い掛けてくるラナの姿。きっとグレースが見たら卒倒してしまうだろう。走る度に揺れるスカートの中からは白い足が見え隠れしている。
多分、ハチを追い掛けて走り出したロゼッタを彼女は慌てて追って来たに違いない。
「と、突然出て行かれたので探しましたよ!」
ロゼッタに追い付いた途端ラナから吐き出された言葉は、彼女にしては珍しく大きな声だった。あまりに予想外な出来事だったので、ロゼッタも言い掛けていた言葉を飲み込んでしまった。
「り、離宮が近くても、一度城壁を出てしまえば外は危険なものだってあるんですっ……!」
ラナの強めの口調にはかなり驚かせたが、それよりもロゼッタの身をここまで案じてくれた事の方が驚きだった。走って来たせいか、それとも少しだけ怒っているせいか、彼女の頬はほんのりと赤みが差している。
だが、そんな彼女を見てロゼッタはクスリと笑った。勿論ラナがおかしいという理由ではない。
「姫様……?」
突然口元を綻ばせたロゼッタに、ラナも不思議そうに見返した。
「ごめん、ラナ。つい、ラナの怒った時の表情とか目が、リカードに似てたから……やっぱ兄妹なんだなって思って」
ラナにしてみれば予想も出来なかった言葉のせいか、彼女は怒っているのも忘れて絶句してしまった。それからすぐに彼女は微妙な表情を浮かべる。怒っている様な照れている様な、少し嬉しい様な、様々な感情が入り混じった表情を。
「と、とにかく戻りましょう、姫様。小さな森でも何が潜んでいるかは分かりません……」
「待って、ハチがまだ捕まってないの」
だが気を取り直して離宮に戻る事を促すラナに、ロゼッタは首を横に振って頑として言う事を聞こうとはしなかった。
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