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その差し出された温かな手には、見覚えがあった。
差し出してくれたのは違う人で、何年も前の話だけど、アルブレヒトはよく覚えている。
それまでの彼にとっての世界は狭くて、暗い所だった。
自分は必要無いのだと、感じていた。
だけど、あの時差し出してくれた人も温かな手をしていて、アルブレヒトに「もう寂しくない」と言ってくれた。彼女と同じ穏やかな笑みを浮かべて。
だが、よく考えてみれば当然なのかもしれない。数年前に手を差し出してくれた人の娘が、ロゼッタなのだから。
「アル……?」
黙ってしまたったアルブレヒトを、ロゼッタは心配そうに見下ろしていた。やはり自分の言葉では駄目だったのだろうか、と心配になったのだろう。
だが、そんな事は決して無かった。
アルブレヒトにとっては嬉しい言葉であり、懐かしい光景でもあるのだから。
「ありがとうございます、ロゼッタ様」
アルブレヒトは彼女の手を掴んだ。数年前に差し出してくれた彼よりは、ずっと小さくて柔らかい少女の手だ。だが、温かさは一緒。
ロゼッタが力一杯引っ張ってくれたので、アルブレヒトはその場に立ちあがった。
「もう、大丈夫?」
ロゼッタは彼を心配そうに見つめる。彼女の水色の瞳一杯にアルブレヒトが映っていた。
アルブレヒトは僅かに頬を綻ばせる。そんな何気ない彼女の仕草一つ一つが、彼は嬉しいと感じた。
「うむ……ロゼッタ様のお陰で」
「なら、良かった」
彼女が見せる笑い顔も握っている温かな手も、陛下に似ているとアルブレヒトは思う。だからこんなに安心感があるのだろう、と彼は結論付けた。
手を握ったまま、アルブレヒトはロゼッタをじっと見つめた。
「ロゼッタ様」
「何?」
「……今はまだ、上手く言えない。だけど、いつか整理出来たら、自分の事話す」
別に自分の生い立ちなどを隠していたわけではない。だが、話す必要もないので話していなかった。
だが、ロゼッタは皆の事を知りたいと言っていた。それに今日のアルブレヒトの言動には、疑問を持ったに違いない。
まだ頭の中では整理が出来ず、上手く説明出来ないかもしれない。しかし、アルブレヒトはロゼッタになら知って欲しいと感じた。
だからいつか自分で整理が出来たら、彼女に言っていない自分の違う部分を話そうと思ったのだ。
「……うん、じゃあ、待ってる」
ロゼッタはゆっくり頷いた。きっとアルブレヒトの話の内容など、予想も出来てないだろう。それでも何かを感じ取ったのか、何も聞かずにただ了承しただけであった。
丁度その時、馬車が緩やかな坂を登って来た。この離宮に馬車が来るという事は、関係者くらいしかあり得ない。
カラカラと馬車は走り、二人がいた正門の前でゆっくりと止まった。そして、二人が馬車の扉を見ていると内側から開いた。
「ロゼッタお嬢さんにアル、こんな所でどうしたの? 悪い事でもして、締め出されちゃった?」
冗談混じりに馬車から出てきたのは、待ち人であるリーンハルト。どうやら本当に今日は早く帰って来れたらしい。
軽やかに彼は馬車から降り立つと、二人に近寄って来た。
「用事があって待ってたのよ」
用事があったのは事実。拾った猫の貰い手を相談したかったからだ。
「え? 本当? そんな……ベッドの中で待ちきれなくて外にいたの? ロゼッタお嬢さんってば大胆……ハルトさんドキドキしちゃう」
「本っ当、無性にどつきたい……」
仕事帰りだというのに、いつもと変わらない、いや異様に元気なリーンハルトに苛つきを覚えたロゼッタ。つい、普段なら言わない事も口をついていた。
アルブレヒトに至っては、純粋故にリーンハルトの言葉の意味を理解していなかった。
「冗談だって、冗談。で? 用事ってなぁに?」
「猫、拾ったの。正確にはアルがね。だから貰い手を探してるんだけど……誰かいない?」
リーンハルトの場合は冗談に聞こえない、という言葉を飲み込んで、ロゼッタは理由を話した。
すると彼はロゼッタとアルブレヒトの腕の中に抱かれた子猫に視線を注いだ。
「んー……王都に祖父母が住んでるんだけど、猫ニ匹くらいだったら飼えるかもね。動物好きらしいし。何なら引き取ろうか?」
「本当? ええ、お願い」
ロゼッタは表情を明るくした。
子猫とはこれでお別れだと思うと少し寂しいが、これで全ての問題は解決。ロゼッタは抱えていた子猫をリーンハルトに渡した。この猫はあまり今の状況を理解していないらしい。
だが、アルブレヒトがリーンハルトに子猫を渡そうとした瞬間、その猫は爪を立ててアルブレヒトにしがみ付いた。
「ね、猫、離れない」
慌ててアルブレヒトは引き剥がそうとするが、猫は力いっぱい爪を立てて離れようとしない。
「あーらら、アル懐かれてんね。どうする、ロゼッタお嬢さん? この子だけ飼う?」
特に慌てた様子を見せず、リーンハルトは横のロゼッタに尋ねる。彼女としても予想外だった。こんなにもアルブレヒトが抱っこしていた猫が彼に懐くとは。
「自分は従者。自分の一存では飼えない」
と、アルブレヒトは首を振る。
「それに、自分が飼うより、他の人の方が、猫は良い」
「そんなに懐いてるのに?」
クスクスとロゼッタは苦笑した。子猫はアルブレヒトから離れたく無さそうである。それに、彼だって子猫といざ別れるとなったら、少しだけ寂しそうな表情もしていた。
たった半日だけだったが、アルブレヒトにとっては情が移るには充分だった様である。
「ハルト、離宮で私の猫っていう事で飼っても大丈夫なのかしら?」
「広いし大丈夫だと思うよー。それに、ロゼッタお嬢さんのお願いだったら誰も断れないでしょ。まあ、一人だけ嫌がりそうだけど」
「リカードの意見は……無視するとして」
たった一人だけいる猫嫌い。だが、ロゼッタは今まで彼に嫌味を言われたりしているので、あえて無視する事にした。
アル、とロゼッタはアルブレヒトを呼び掛けた。
「この子、私の猫っていう事にして離宮で飼いましょう。だって、こんなにこの子はアルの事必要としているのよ?」
アルブレヒトの腕の力が僅かに緩んだ。少しだけ驚いた様な表情で、腕の中で寛ぐ猫を見る。
「でも、私猫飼った事ないから、飼うのを手伝ってほしいの。これ、命令じゃなくてお願いだからね?」
アルブレヒトの扱いが上手くなったものだね、とリーンハルトは心の中で呟く。どうやら素で彼女はアルブレヒトの扱いを心得たようだ。
そんな事を言われてしまえば、アルブレヒトだって断れない。
それに、腕の中の小さな温もりが自分を必要としてくれている、そんな事実に戸惑いが少し隠せなかった。
「……うむ、分かりました」
それでも嬉しいという感情が表情に表れ、僅かに笑みを零しながらアルブレヒトは彼女のお願いに応えたのだった。
end
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