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「あれは……魔術か?」
ただの蛾でない事は明らかだ。リカードはノアに問う様に呟いていた。
彼は昔聞いた事がある。とある種の魔術で生物の型を作り、それを操る術がある事を。そして、それは主に諜報に使われる。
「……まあ、ただのネズミだよ」
そう言って、ノアはつまらなそうにワインを仰いだ。彼の言葉が、ただの生物のネズミを指すわけじゃない事は全員が認識した。
それは「侵入者」という意味でのネズミだった。
「術者の方は?」
今のが魔術ならば、魔術を使った者がどこかにいる筈。剣の柄を撫で、リカードは腰を上げようとした。
だが、ワインで湿った唇を撫でながらノアは無理だよ、と呟く。
「近くには、いない……魔力を辿っても、すぐに途切れていそう。でも、こんな事誰がするかなんて、愚問でしょ?」
ノアが珍しく口角を上げた。
確かに愚問である。誰がしたんだ、と疑問に思う必要もないのだ。離宮をこうやって調べ出す人など一人しかいない。
金糸の髪を掻き上げながら、リーンハルトは溜息を吐いた。さらさらの髪は指に絡む事なく、指の間を流れていく。
「あーあ……色々忙しいのに、あのイヤなオッサンは更に俺の仕事を増やす気かね」
「陛下への御報告は?」
明日に、とリカードの問いにリーンハルトは短く答えた。今日はもう遅い。どうせ仕事で彼は本城に行く必要があるので、明日王に会った時に報告するつもりなのだろう。
飲まなきゃやってられない、という風にリーンハルトはワインを飲んだ。
「……ルデルト家の方で、今傭兵を集めているらしい」
「何の為に? まさか、全面的に争う気じゃないだろうな?」
今アスペラルとアルセル公国の間には、緊張の空気が流れている。そんな時に王に対して謀反を起こせば、国内は更に混乱するだろう。
それはルデルト家の当主とて、重々承知している筈だ。
「しかし、今争ってはルデルト家にも益はないのでは?」
そう口を開いたのはシリルだった。
少量しかワインを飲んでいない彼はいつもと変わらないが、温厚な笑みは消えていた。眼鏡の奥で、真剣な眼差しが光を宿している。
「だよね、俺もシーくんと同意見なんだ。国が倒れたら王位の話じゃなくなる……」
今王とルデルト家が争うとすると、それはアルセル公国にしてみれば好機になるだろう。そんな時にアルセル公国に攻められれば、下手すれば敗戦の危機にもなる。そうしたら、王位の話ではなくなる筈だった。
ルデルト家が王位を欲するならば、まずはアスペラルが勝つ事が必須条件。まず国が亡くなる様な事は避ける筈だ。
「なら、まずは……暗殺の為の手駒、だな」
一番に考えられるのは、やはりロゼッタの暗殺の為だろう。例え彼女が死んでも、戦争の勝敗にはあまり関係がない。
また、自分の部下を何度も刺客として送っていたら、いくら何でも不自然過ぎる。例え、既に辞めた部下だと偽造しても。
ならば、余所者を雇った方がよっぽど良いのだろう。雇い主の情報を隠して雇う方法など、いくらでもあるのだから。
「……とりあえず、国内にいる事はもう知られているな。離宮に置いておくのも、いずれ限界が来そうだ」
リカードの言う通り、国内にいる事が分かっているのならば、王がロゼッタを隠しそうな場所は限られてくる。この離宮もその一つに違いない。
「先程の蛾で、バレたでしょうか……?」
先程までこの広間にはロゼッタがいた。あの蛾がいつから天井付近を漂っていたかは知らないが、それだけがシリルには気掛かりだった。
一番最初に蛾を見つけたノアは、どうだろうね、と呟いた。盗み聞きされていたのは気付けても、流石に彼には何があちらに知られたかは予測は出来ない。
「でも、最終的には逃げ場がなくなるのが道理だろうね」
アスペラルの国土は限られる。例え離宮にいる事がバレ、他所に移ったとしても、国内にいる限り安息はないに等しい。王もそこは気付いているに違いない。
「ハルト、陛下はこれから一体どうするつもりなんだ?」
賢王としても名高い現アスペラル国王。リカードとしては、賢い主人が何も考えていないとは思っていなかった。
それに王はロゼッタを王位に据える事を望んでいる。ならば、いつまでも彼女を離宮に置いておくという事は考え難かった。いずれ、彼女は本城へ移住する可能性が高い。
「……シルヴィーは手筈を整えて、ロゼッタお嬢さんを是非次期王に……つまり、いずれは本城に連れて来たいらしいよ」
「ま、だろうな」
今の段階ではとても難しい話である。ロゼッタが王位を継ぐには、色々な問題が山積みになっているのが現状だ。また、本人に継ぐ意思がないというのも大きな要因である。
本格的にロゼッタに王位を継がせようとするならば、王の一人息子である王子とは争いは避けられぬ事態だろう。
「で、もう一つの方の話は?」
リーンハルトは二つ話があると言っていた。片方がルデルト家の話であり、それは今終わった。もう片方の戦争についての話がまだ残っている。
「アルセルの方も不穏な動きがあるらしい。武器と兵、二つを集めているとか」
「……あっちは随分とやる気だな」
リカードは重い溜息を吐いた。もし戦争となれば、彼は騎士団長として兵を率いて戦場に立たねばならない。騎士だが決して不要な殺生は好まない彼は、好ましい仕事ではない事は確かだ。
そもそも、アスペラルはたまに人間の国と争う事があるが、その原因は大抵些細な事であった。一般の人間とアスペラルの民の争いが原因だったり、本当に些細であった。その話が大きくなると騎士団が介入し、戦争という事態になるのだった。
アスペラルの民は元々争いは好まなかった。自分達しか使えない魔術がある分、人間よりは優れているが、彼らはそれを戦う事ではなく生活に使って暮らしている。
だが、傍から見れば魔術とは奇異な力。待っていたのは人間からの迫害に近い争いであった。
そもそも大昔から魔族と人間は不仲であったらしいが、その根本的な原因は最早不明なのだ。ただ魔族と人間は不仲、という事実しか残っていない。
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