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竜の牙という土地では、鉱物であるクリスタルと氷の区別がつかない。
もっとも、右を向いても左を向いても半透明なその世界では、すでにどちらがどうでも良い。
おおよそ、何か生き物がそこに暮らす痕跡など、竜の牙にはなかったし、例え何か間違ってそこに足を踏み入れるものがいたとしても、そう長い時間、生き物でいられるほど、甘い土地ではない。
それゆえの極寒――
それゆえの竜の牙であった。
そこでは、吸い込む空気自体が刃物のように鋭く、息をするのも覚束ない。
その張りつめた空気の中、女が一人、凍てついた壁を一心に撫でていた。
素材を細かく起毛させたなめらかな外套には頭巾がついており、彼女はそれをすっぽりと被っていた。
その外衣は、竜の牙に近い土地のものではない。
真っ黒な外套から僅かにのぞく頬はふっくらと白く、時々何かを呟くように動く唇は瑞々しく赤い。
まだ若い。
その彼女に近づく影があった。
重い鉄が擦れ合う音が、不規則に立ち並ぶクリスタルと氷に反射する。
ところどころ曇った甲冑は、幾度となく返り血を浴びた証拠である。
彼女のすぐ後ろまできて、その重厚な甲冑の主はゆっくりと腕をあげ、兜に手をかけた。
女は振り返る様子がない。
甲冑の主はそのまま兜を外した。
戦乱を駆け抜けた強者の顔が現れた。
その顔を彼自身の黒髪が撫でる。
「ナルトーチカさま、そろそろ……」
深い黒瞳が、女の背中を見つめた。
女は名残惜しそうに冷たい壁を一撫でした。
「また来るわ、デルフィ」
そして甲冑の男を振り返る。
「いきましょう、エイドス」
白い息を吐いて、彼女は言った。
促すように、エイドスと呼ばれた男は彼女の後ろに回った。
「これを……」
男が差し出した獣の皮で出来た帽子を被るために、女は頭巾を優雅に脱いだ。
流れ出たのは、見事なまでな黒髪。
それを隠すように帽子を被って、二三歩歩き出したところで、彼女は一度その足を止めた。
「待って、エイドス」
前に出かかった固い甲冑の肩にそっと手をかけ、彼女は凍てついた壁を振り返った。
そして、外套の腰の辺りを指で持ち上げると、ゆっくりと体を傾けた。
「また、100年後に。陛下」
言って顔を上げると愛おしそうな瞳で壁を見たあと、意を決したように踵を返す。
その凍てついた壁の中には、一人の男が瞳を伏せたままで立っていた。
その髪は長く美しい黒髪。
そして、おそらく、その伏せられた瞳が開けられれば……
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