小説 | ナノ


高層ビルの群れ。近未来的なデザインの専門学校やシンプルな造りの企業と外資系ホテル。展望台で見た景色を脳内で思い浮かべ、自分が今だいたいどの位置に立っているのかを考える。頬に当たる冷たい風が前髪のセットを乱した。歩道の真ん中に立ち止まる私の肩を、スーツ姿の男がぶつかっていく。通算4回目の衝突である。早く退かねばと思う。思うだけで、鉛のように重くなってしまった足は、己の意思に反してビクともしない。私の横を足早に通り過ぎていく人々。その顔には多少なりとも疲労の色が滲んでいた。現在の時刻は午後6時45分。あと15分で、私は私の尊い男に別れを告げる予定だ。


「随分と長い瞑想だったな」

ホテルに併設されたカフェラウンジ、クロロは1番奥の窓側に腰掛けてグラスビールを煽っていた。セミジャズが流れる店内には豪勢なシャンデリアとウェイターの男が数名。この手の畏まった場所は苦手だった。不釣り合い過ぎて居心地が悪い。幾度も苦手だと伝えてきた筈だが、彼が私の意思を尊重してくれた事など過去に一度もなかった。彼との関係性すら即答出来ない惨めさが付き纏う。彼の口から好きだと言われた事はないし、付き合ってくれと言われた試しもない。気紛れに呼び出されては慣れない場所でご飯やお酒を奢られ、家まで送られる。セックスだって会う度にする訳ではなく、セフレとも言い難い。頻度で言えば3回に1回程度。平凡な女を体言化したような自分が、正式な恋人という肩書きを与えられていないだけでこんなにも美しく聡明な男と関係が持てる、これ以上何を望むと言うのか。数ヶ月前の自分ならば贅沢だと罵っていただろう。しかし今は違う。例え罵られようが煽られようが一向に構わなかった。自身の心労を理解出来るのはきっと自分自身でしかない。他の誰かがご所望であれば立場を譲って差し上げたいくらいだ。現状を見る限りでも。立ち止まったまま微動だにしない私を怪訝に思う事もなく、彼はツマミで頼んだであろうチーズの盛り合わせから一際色の濃い物を摘まんで口に含めた。

「あの」
「なんだ」
「もう、こうやって会うの、止めようと思うんですが」
「……せめて座ったらどうだ」

煩わしいと言わんばかりに首をクイッと動かし、向かい側の席へと促される。

「座れと言わなかったので」
「どんな屁理屈だ。お前は座れと言われない限り、自分の意思で座る事も出来ないのか」
「それほどに対等な立場でしたっけ」
「……今日は自棄に突っ掛かってくるな。生理か」

デリカシーのない男だ。意地でも座ってなるものかと憤慨しかけたが、ウェイターの男が此方へ向かってくるのを横目に見て仕方なく腰掛ける。

「それで。会うのがどうだとか言っていたが、なんだ」
「……今日で会うのを止めたいと思って、それを伝えに来ました」

耳に心地よい声で注文を尋ねるウェイターの男にキャラメルマキアート、とだけ伝える。お辞儀をして去っていくその姿はとても姿勢が正しい。

「対等な立場でないのなら、お前の申し出を俺が素直に聞き入れるべきではないだろうな」

相変わらず意地の悪い返しだ。口をへの字に曲げて不満を表現する。

「背伸びをするのに疲れたんです」
「背伸び、とは?」
「釣り合わないにも程があります。会う度にこういう場所ばかりで…」
「こういう場所、とは。もっと具体的に言ってくれないか」
「たかだか珈琲1杯でお札を出さなきゃいけなかったり、無駄に高くて雰囲気のある場所です」

察して進めてくれと望むのは恐らく不可能だろう。クロロは敢えて私に惨めな存在である事を認識させるような態度しかとらない。悔しいとか、彼に似合うような女になりたいとか、そういう恋する女のおめでたい思考はとうに消え失せた。子供が駄々を捏ねているだけに見えるような口調でも、彼に煩わしさを与える事が出来れば上々である。

「ならお前が店を提案すればいいだろう」
「提案すれば聞いてくれたんですか、マックとか牛丼屋でも」
「マックや牛丼屋はともかく、提案した事もない癖にお前の希望通り事を運べと言う方が傲慢だろう」
「……そうですね。子供ですから」

このまま会話を続けたって彼を言い負かす自信はないし、頑なになっていても堂々巡りで終わる。嘆息を漏らす。自惚れるつもりはないが、何故自分なのか甚だ疑問である。聡明で容姿端麗。若いのに金回りも良く、センスも良い。性格の面でやや難ありだが、それを除けば正しく完璧な男である。それこそ女なんて掃いて捨てるほど群がるだろうに。都合の良し悪しで選ぶにしたって、彼の持つ条件ならば決して苦ではない筈だ。

「……どうして、」
「ああ」
「どうして、私なんですか」

またもや言葉を濁した。指摘されても尚、具体的な表現が出来ないのは、悔しいが未だ自身の中に躊躇いが残っているせいだろう。クロロは理解している。此方が伝えたい正確な表現を。即座に先程の嫌味が繰り出されるだろうと身構えていたのに。彼は口を閉ざしたまま、窓の外をぼんやりと眺めていた。綺麗な横顔。憎たらしいくらいに整った曲線美。女顔と言えば女顔だが、クロロは男としての色気も十分に備わっている。どこか危うげで儚く。その実、本音は明かさないし素性すら頑なに隠されて、そう易々とは踏み込ませてくれない。彼を知りたいと願った日々も確かにあった。しかし今は違う。あるのは解放されたいと喚く幼子のような自分。きっと私は、己の意思によって彼から離れる事など叶わない。結局、今の贅沢を捨てきれないのだ。惚れている弱味もあるし、何より男の全てが魅力的で仕方ないのだから。下唇を噛み締める。口内にじんわりと広がるグロスの苦味。運ばれてきたキャラメルマキアートに自分の情けない表情が映った。見捨てないで、呆れないでとまるで言っている事とやっている事が噛み合わないそれのように。

「確かめたいからだ」
「……え?」

不意に溢された言葉。理解が追いつかずに尋ね返す。確かめたい、とは何をですか。声が微かに震えている。

「善悪の正しさや常識なんてものは求めていないし、そもそも不要だと思っている」
「…はあ」
「それでも時おり、無意識の内に苛立ちが募るんだ。それが現状に対する不満なのか、或いは不要だと捨ててきたものに対する枯渇感なのか」

枯渇感、まるで彼には似合わない表現だと思った。現状で足りないものなんてないだろうし、経済的にも欲しいと願えば大抵の物が買える筈だ。それこそ一国の大統領になりたいとか、宇宙を手に入れるべくロケットを購入したい、といった途方もなく子供じみた類いの願いでなければ。

「癒されている、と言えば些か語弊があるか」
「え」
「お前といると全てが馬鹿馬鹿しくなる。考えても無駄だと納得出来る。間違ってないとも確認出来る」
「馬鹿馬鹿しくなる……ですか」
「そこだけをピックアップするな。俺にとってこの時間が必要だと言っている」
「辛辣な言葉だったので」
「甘い言葉が欲しいならいくらでも言ってやるさ。ねだるならベッドの上で言うべきだがな」

なるほど、要は茶化されたのだ。上手く流されたような気もする。それでも、流したいと思うくらいには私との関係を絶ち切るのが嫌なんだと前向きな考えにも至れる辺り、所詮私はただの女なのである。

「そうだな、次に会う時はファーストフードの店を待ち合わせ場所にするか」
「似合わなさそうですね」
「……漸く笑ったな」

フッと溢された笑み。瞬間的に視界が滲む。ああ、嫌だ。何でそんなに柔らかい笑みを浮かべるの。また私は馬鹿みたいに勘違いをするじゃないか。期待をするじゃないか。零れ落ちそうになる涙を隠す為に俯いた。高層ビルの隙間に立ち尽くす30分ほど前の己の姿を思い浮かべる。迷子のような頼りない背中。爪先に小さな汚れのあるパンプス。

(ねえやっぱり私はクロロから離れる事は出来なかったよ、と情けない報告をしてあげたい)


第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -