「■世界で一番幸せな」
彼と彼女は些細なことで些細な喧騒を繰り返す。
互いに意識している事こそ周知の事実ではあるが、互いの胸に秘める本音は決して吐露しない曖昧な関係だ。
しかしそれは昨日までのことである。
彼と彼女は昨日初めて肌を重ねた。
丁度彼女等の家族全員が家を空けていた、前例により策略とも感じ取れる夜、それが策略ではないと感じ取った二人は、彼女は彼女の部屋で頭の弱い彼の為に勉学に励んでいた。
最初こそ真面目に勉学に勤しんでいた二人ではあったが、二人は腐っても許嫁の関係、将来を約束された仲だ。
それだけではなく彼にとっては彼女が、彼女にとっては彼が恋い焦がれた相手である。
そんな二人に勉学が絶縁体となるはずもない。
つまり、きっかけはどんなことでも良かった。
些細なきっかけに彼等は見つめあい、半ば流れで共に彼女の可愛らしいシーツの波に溺れた。
中高生のミーハーな女子が愛読する甘ったるいロマンス小説や少女漫画を彷彿とさせるような展開である。
一度頑なに閉じ込めていた心中を晒せばその後は案外楽なもので、素直にさらけ出した言葉は身体を重ねている間、留まることを知らなかった。
彼女は彼がほとほと彼女を愛している事を知り、彼もまた然りである。
行為後は以前の自分達は何故意地を張ってまで本音を吐露しなかったのか、と思うほどだった。
そして現在に至る。
先に眼を開き、どうやら昨夜彼と結ばれたのが夢か現か理解出来ない気持ちでいる裸体の彼女と、同様な姿で隣で眠る彼がそこにはあった。
彼女の身体中に落とされた朱色の印が、昨晩の事情が嘘では無いことを彼女に教える。
混乱している彼女をよそに彼がぱちりと目を開いた。
目覚めたばかりの彼も彼女同様の表情を浮かべたのはつかの間、ふっと優しい笑顔を見せた。
「おはよう、あかね。」
彼の腕の中に引き込まれた彼女の交感神経は急速に働きを強める。
「お、おはよ。」
彼女は昨日まで自然と、まるで呼吸をするかのように可能だったはずの、彼に視線向けるという行為が出来ずにいる。彼は彼女が知る限りでは見せたことのない優しげな表情を見せるものだから。
少しだけ…彼女は視線だけを動かし、彼の表情を探ろうと試みる。しかし、そう簡単に行くはずもなく視線の座標はぴったりと重なった。
「そんなにジッと見ないでよ馬鹿っ!」
大層羞恥の心を持ち合わせている彼女は、恥ずかしいじゃない、と呟いた後身体を翻し彼に背を向けた。
しかし、そんな彼女をどうしようもなく愛しく感じる彼の腕の力は必然的に強まるのだ。
「あかね、可愛い。」
昨日まで死んでも言わぬという姿勢を貫いていたとは思えないほど彼はぬけぬけと砂糖菓子の如く甘ったらしい言葉を言い放つ。そして彼女の絹のような滑らかな肩に唇を落した。
あまりに姑息で卑怯だ反則だと彼女は思う。
あたかも彼が一枚上手のようで悔しかった彼女はその頬にそっと口付けた。
仕返しだと言わんばかりに降り注ぐ口付けの甘い攻防は暫く続く。
それをきっと人は世界で一番幸せな朝と呼ぶのだろう。
end