「■heroine」
少し未来の結婚、出産後の話。子供は女の子です。
ほのぼの皆無嫉妬→甘です。
◆◆◆
仕方ないと理解している。
恋人が父親になれば、優先されるべき対象が私だけでは無くなると。
勿論乱馬も然りだ。
我侭に過ぎないことは分かっているつもりだが、私は子供が出来ても乱馬の「一番」でありたかった。
本当は、乱馬に抱きしめて欲しかったのだ。
◇◇◇
「二人とも、ご飯だから早く起きなさい。」
失敗する場合もあるものの、料理教室に通いつめて(その節は相当な迷惑をお掛けしたと思う)昔に比べ随分上手くなった料理。
卵とベーコンがこんがりと焼け、それにクレイジーソルトを振りかけた所で私は寝室でまだ夢の中の住人であろう旦那と子供に呼び掛けた。
しかし返事が無い。ので、一度溜息をつき寝室のドアを開ける。
其処には小さな娘を抱きながらすやすやと眠る乱馬と、その大きな胸に身を委ねて寝ている娘の姿があった。
私がおかしいのかも知れない。
普通であればこのような光景を目の当たりにすると微笑ましく感じる所なのだろう。しかしながら、私にはそう思えなかった。
其処は私の場所だったはずなのに、と。
このところ、嫌な気持ちが鍋の中で沸騰し始めた湯のごとくふつふつと沸いてくる。
娘に自らのポジションを奪われたような気がするのだ。
私は夫の事を名前で呼んでいる。しかし彼は…。
名前で呼んでくれたのは、どれくらい前の事だったか。
抱きしめられたのはいつが最後だったのだろう。
娘のことは勿論愛しているし、私の命に代えてでも守ってあげたい。
しかしそれは私が『母親』としての話である。私は母親になっても女としての顔は捨てられずにいた。
女としての私は女として娘に嫉妬してしまう。なんと私は醜いのか。
しかし乱馬はすっかり『父親』となったようで、私は一人置いてけぼりだ。
幸せだと感じつつも心のどこかで満たされていない毎日。
どうして抱きしめてと言わないのか。
どうして名前で呼んでと一言言わないのか。
言える筈がない。
乱馬にその気が無かったらと思うと、心がどうしようもなく苦しくなるのだ。
幻滅されたらどうしようかと。
今も昔も変わらぬ私は臆病で片思いの頃のよう。
たまには構って欲しい。愛の言葉が欲しいんだよ。
其が言えればどんなに楽なことか。
しかしながら、乱馬がその対象にするのは私ではなく娘なのである。
こんな感情を心に秘める私は自分でも嫌になるほど醜いと思う。
そしてそれはそんな気持ちが溜まりに溜まったある日の夜の話である。
「もう一人子供欲しくねえか?」
娘が寝付いた後乱馬は突如私の耳元で囁いた。
突然の事で驚き何も返事が出来ないでいた私に怪訝な顔を向ける彼。
「聞いてんのか、あかね。」
その言葉に肩を揺らしてしまう私は単純だ。
久々に名前を呼ばれたことがどうやらとても嬉しかったらしい私は、『うん』と一言言うつもりであった。
しかしである。
もう一人子供が出来れば彼の私に向けられる愛情はまた薄くなるのではないか。そう考えた私は再び醜い気持に支配され始めていた。
そうだ。今更なんだというのだ。
彼に愛されたい、しかし彼の愛が希薄になってゆく事が怖い 。
ジレンマに揺れるも、最終的に天秤は後者に傾いたのである。
今の私には『母親』の顔を作る事は出来そうに無かった。
「嫌。」
寝室にたった二文字の言葉が響き渡る。
再びその空間は静寂に包まれた。
「…何でだよ。今日生理じゃねえだろ。」
少々憤りを含んだ声で乱馬は言った。
何で貴方が怒るのか。今まで私を求めてこなかったのは乱馬の方ではないか。
「な、あかね。」
私を抱きしめようと伸ばしてきた腕。その時私の中で何かが弾けたらしく、拒むようにそれを振り払った。
「うるさいわね、嫌だって言ってるでしょう!私、乱馬ともうしたくないのよ!」
そう吐き捨てた私は布団から出る。
「…今日は、ソファーで寝るから。」
乱馬は一体どのような顔をしているのだろうか。
しかし、私には彼の表情を伺う余裕など無かった。
抱いて欲しくないなんて嘘だ。
嫌だなんて嘘だよ。
もう…私、めちゃくちゃだ。
寝室を飛び出した私はリビングに配置してあるソファーに踞る。
きっと彼は怒っているだろう。
もう駄目なのかもしれない。そう思った時だった。
「こんな所で寝たら、風邪引くぞ。」
顔を上げると、其処には先程突き放した夫の姿があった。
「俺と一緒に寝るのが嫌なら俺がソファーで寝るから。お前は寝室に戻れ。」
薄暗い中、乱馬の顔が見える。
…彼は見たことも無いような悲しい顔をしていた。
――私が、彼をこんな顔にさせたのか。
途端に自分の放った言葉の軽薄さを思い知る。
「何で嫌なんだ?」
乱馬は絞り出すようにポツリと言ったが、本当の事など言える訳が無かった。こんなにも醜い私の心を知られたくないと考えた私はギュッと目を閉じる。
「ごめん変な事聞いた。今まで、無理強いしてたんだな。俺。」
「ちがう!」
反射的に発したそれは自分でも驚くほど大きなものだった。
それと同時に涙が滲み出す。
「違うの。本当は私…。」
その先を言おうとしたものの、感情の高ぶりのせいか声が詰まって何も言えない。
それは突然のことだった。
言葉の続きを探していた筈の私はいつの間にか暖かいものに包まれていることに気付く。
いつの間にか乱馬に抱きしめられてたからだ。
「もういい、泣くな。何であんな事言った?怒んないから言ってみな。」
そう言う乱馬の声色はとても優しく、その一言に背中を押された私は意を決して口を開いた。
「悲しかったの。乱馬は『子どもが欲しいから』私を抱くのかなって。」
そうだ。其処に愛の言葉が入っていなかったことが不安だったのだ。
「違うよ馬鹿。何でそんな事…」
「だって!最近、乱馬は私のこと名前で呼んでくれないし、抱きしめてもくれなかったじゃない。あの子ばかりに構って私不安だったのよ。もう私を『女』として見てくれてないのかって…」
『幸』という文字からたった一画抜けるだけで『辛』という文字になるように、幸せであったはずの心はこうも簡単に色を変える。
苦しかった。辛かったのだ。
「ずっと不安だったのよ。やっと名前を呼んでくれた…私を求めてくれた。そう思ったけど乱馬はまた、『子どもの事』を考えていたから。私じゃないんだって思ったら…だから…。」
筋張った大きな手で私の頭は彼の胸に押し付けられる。
「あかねごめん…俺、不器用だから。」
彼は切羽詰ったような声で言う。
「俺だってお前を抱きたかったし、名前で呼びたかったさ。でも何だか照れくさくて…勿論、子どもが欲しかったのも事実だけど、そういう口実を付けないと言えなかったんだよ。お前が大切だったし、人の親になった訳だから自分の欲を優先する訳にもいかないし、傷つけたくなかったから…」
その言葉に私は目を見開いた。
愚かなのはどう考えても私だった。
そうだ、彼は元々こういう人だったのだ。気持ちが通じあう前、どんなにねだった所で気持ちを素直に表に出せない人だったではないか。
乱馬は遠回しに私を求めていてくれていたのだ。
どうして私はこんな簡単な事さえ解らなかったのか。
こんな私を乱馬は『女』として必要としくれている。そんな理由でまだ私は貴方の隣に居てもいいらしい。
「ごめん。どうしたら許してくれる。」
そう言って悲しそうな顔をした彼に、私は優しく口付けた。
私の方こそごめんねの意を込めて。
そして思い切り乱馬に抱きつく。
「一つ条件があるわ。」
そして私は彼に耳打ちをする。
乱馬はふて腐れたような照れた顔を私に向けた。
「一回しか言わねえぞ。」
返事の変わりに私は乱馬に微笑んだ。
「愛してる。」
私の身体がゆっくりとソファーに押し付けられる。
そして、両思いになったばかりの恋人のように、世界一甘くて世界一幸せなキスをした。
母親になったって
お祖母ちゃんになったって
貴方が私を女の子としてみてくれる限り、私は『女の子』。
そして貴方が隣にいてくれるだけで、少女漫画に出てくるような幸せに満ち溢れたヒロインになれてしまうらしい。
「私も愛してる。」
end