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本番当日。極めて普通に登校し、諸連絡を済ませたあと、普通に登校してきたことが嘘のように体が硬直した。緊張というのならばまだ救いがあっただろう。しかし私の場合、本当に指一本も動かせず、冷や汗が濁流のように流れ落ちてきたのだ。病か何かに罹ったのだろうかとピリピリと痺れの走る舌を必死に動かしていると、西置さんがやって来て肩を叩いた。

「頑張って」
「もひろん」

噛んだ。いや、麻痺しているから正式には呂律が回っていないというべきなのか。恥ずかしくて目線だけでも遠くを見ていると、西置さんが急に笑い出した。爆笑だった。

「そんな緊張しなくても。もしかして緊張しい?」
「ひがうわ!」
「呂律まわってなーい」

からかうように言われるとどうしていいのか分からなくなった。否定を重ねたくもあったが、それをするには舌がいう事をきいてはくれなくなっていた。何も言えずに西置さんを見ていると、ふっと柔和に目元が緩んだ。ふわりとした柔らかな容姿が花が咲いたように鮮やかに色をつけた。

「大丈夫、いっぱい練習してきたんだもの」

そうだ。そうなんだ。練習をやってきた。最初は上手くいかなくて、何度も台本をなぞって折り目がつくまで注視していた。間違えやすいところは線をいれて、どうにかして間違えないようにと工夫した。そのうちセリフは間違えないようになっていって、動作もともなえるようになった。少しずつ、でも着実に積み上げてきたものがそこにはあった。だから、成功させたい。自分の努力に結果が伴って欲しかった。どんなに世界が厳しく、努力が報われることが少ないとしても今日ぐらいは自分に都合のいいように願ってもいいように思えた。
そしてそれは、願うだけではだめだということを気付いた。きちんと叶えなければ、自分の手で掴めなければ、いけないのだ。今までやってきたことは無駄ではなかった。衣装を用意してくれたみんな。場所をとってくれたみんな。看板やチラシ作りをしてくれたみんな。やったことを後悔させない舞台にしたい。だからきちんとやり遂げなければ。
決意を新たにしたところでおでこを弾かれた。
目の前には、幸村君がいた。パチンといい音を当てた自分のおでこをさすると、にいと音が出そうなほど笑みを湛えられる。

「今日が本番だね、友。楽しんでいこう。考え過ぎるのは君の悪い癖だよ」
「うっ」
「試合前ってさ、いろいろ考えるんだけど上手くまとまらないからさ、頭の中空っぽにして挑むんだ。そうすると集中出来て逆にいいんだよ」
「本当?」
「嘘を言う必要なんてないだろう? さ、衣装に着替えなきゃ。もうそろそろ開演だよ」

開演という言葉にまた緊張が戻ってきた。難しい顔をしていたのか、幸村君がもう一度デコピンをしてくる。

「もう、考えなくていいんだって。難しいこと考えても仕方ないんだから。楽に行こう!」

幸村君が手を引く。力強い力でグイグイと引っ張られると、考えていたことが霧散していった。考えていることはないのに、どこか考えが纏まったような不思議な感覚がしている。

「……そうね。楽しみましょう!」

自ら明るい声を出す。まだ始まってもいないんだ。今からやらなくてはならないことがたくさんある。
手を上に伸ばして深呼吸をした。息を吐き出すと同時に目一杯頬を手で叩く。

「最初で最後の劇なんだもの!」



西置さんに手伝ってもらいながらドレスを着る。幸村君も参加していた衣装造りは、上等過ぎる出来栄えだった。黒のレースに金糸の縫い付けをされている衣装はどこからどう見ても既製品だ。作った人が縫い物とかが好きらしい、好きという域を越えているようにも思えるが。というかプロの仕事だった。
「ごめんなさい」
唐突に呟かれた言葉に、目を細める。仕度をしながらだからか、西置さんとは目が合わない。
「何が? 特に謝られることはこれと言ってなかったと思うんだけれども」
身に覚えがない。もしかして幸村君と一緒に役者として祭り上げたことだろうか。それは恋愛感情を利用した幸村君が全面的に悪いと思うのだけど。
「中学三年の時の話し」
「?」
別に西置さんとは深い関わりがあったわけではないはずだ。それに中学三年の時といえば…………。ああ、そうか。
「今更謝られても困るんだけど」
「そうよ、ね」
西置さんは私を見た。
しっかりとこっちを見た。
「今更なのは自分でも分かってるの。でも踏ん切りをつけたくて。そういう意味でもごめんなさい」
「謝られるのは得意じゃないの。別にそう何回も謝らなくてもいいわよ」
それに、別に謝られる必要なんか、ない。
あれは仕方のないことでも、辛くなかったことでもなかったけれど。それでも、やっぱり今更だ。それに、謝罪したほうが満足するごめんなさいを何回も言われると困る。
対応に困るし。
「ねえ、哀川さん。本当に雪羅さんと決着をつけるの?」
口が女子のように軽い幸村君を恨みながら頷く。すると、どこか悲壮そうにそうと目を伏せられる。
「どうかした?」
「いいえ。でも、それでいいの?」
「…………」
「別に雪羅さんと決着つける必要なんてないんじゃない? だって、雪羅さんは……変わってしまったんだから」
変わった。確かにそうかもしれない。
「それにーーーー」
西置さんは目を閉じて堪えるように口を結ぶ。どうかしたのか、きこうとして時間を見て驚く。
もう開演十五分前だ。
「この話しは、また後で」
西置さんは背中を押す。いつの間にか衣装もメイクも完璧だった。喋りながらだったのに流石としか言いようのない。
「ありがとう」
振り返りざまいうと意外そうな顔をされて、そしてすぐに困ったように笑われた。
「いってらっしゃい、劇楽しんで」
ひらひらと降られた手に頷き、扉を開ける。
これからが始まりだ。




  
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