幸村精市 五月七日




五月七日。それは俺が一番楽しかった日だと思う。とはいえその日の夕暮れ俺は彼女に対しての話の全貌を少しばかりかじっていたのだが、それでも、今の俺、高校三年生の俺と比べてその当時の高校二年生の俺は色んなことを知らなすぎた。無知は罪とは言ったものだと思うけど、それを言うんだったら無知は夢であると俺は言いたい。だって無知であった期間はふわふわの綿菓子みたいに甘い幸せだったのだから。





ペラリと本を捲る音は一時停止をした。俺はその音にピタリと口を閉口させる。静かに耳をすませると小さく吐息が溢れるのが聞こえてきて、俺は息を飲んだ。友が、俺が居るときに何か動こうとしているのはこれが初めてだ。


「……本」

小さな声だった。無意識のうちに呟かれたように思えたそれを聞いて俺は嬉しくて嬉しくて涙が出そうになるのをやっとの思いでとどめる。夕方のことがすべて頭から吹き飛んだ。

友、友のお母さん呼んでこなくちゃ。

と足を上げようとして、そういえばと座りなおす。買い物してくるわねと言った一年前とは比べ物にならないぐらい窶れ込んだ友のお母さん。留守を任されたっていう大役は嬉しかったんだけど、今日に限って言えば間が悪い。

どうするべきか。悩み、顔に手をやったそのとき、部屋の奥で色々な物が薙ぎ倒される音がした。
びっくっと肩を強ばらせる。なんだ、どうしたんだ。いつもの静寂じゃない今日はとてもびくびくとしてしまう。今日はどうしたんだ。音があった友の部屋に行くため、扉の取っ手に手をかける。ダメ元でだ。友のお母さんからも聞いている。鍵がかかっているからと、取っ手が回せないことも承知でドアノブを握ったのは反射からだった。でも。
クルリと回りカチャリと何かが外れる音。それが扉の開閉音だと気が付くには時間がかかった。そして、気がついてからの沈黙。そして、開いたことへの猛烈な嬉しさ。

え、どういうこと。愛の力でとかいうやつ?いや、自分で思ってそれはないなと思ったけど。でも、え、どういうこと?俺、そんな豪腕じゃないよ?ドアノブ力任せに破れないって!ってことはなに?友が、開けてくれた?俺の為に?

唇に熱が集まる。可笑しい、顔が熱い。というか全身が熱い。誰か助けて。今火傷して死にそうです。嬉しすぎて、泣きそうです。愛しすぎて胸が張り裂けそうです。友が、うわあっ。俺、気持ち悪い、かっこ悪い。動揺し過ぎ、どんだけだよっ。自分ながら気持ち悪いよっ。そう思っても気持ちが上がっていくのが分かる。友が動いてくれている。本を捲るんじゃなくて、鍵を開けてたりしてくれた。俺を迎えいれてくれた。約一年ぶりぐらいに、彼女と会話出来るかもしれない。そう思うといてもたってもいられなくなった。早く入りたいその思いが先行して、呼び掛けもせずに扉を開く。ぎぎぎと掠れる音。


友の部屋に入ると俺は視線をさ迷わせて、彼女を探す。彼女はすぐ見つかった。本に押し潰されるように囲まれて荒く息をしている。ほの赤くなっている頬に一瞬ドキリとして、目線をさ迷わせる。なにこのゲームみたいなの。ヤバい、こんな胸が高鳴っている状況で直視たら襲いかねない。ねえ、ちょっと友起きてよ。襲っちゃうよ?肩を揺らすと荒い吐息が増す。それに違和感を覚えた、……っ!もしかして熱がある?
昔よく俺もなっていた状況に顔が青くなる。こういう場合はどうすればいいのだろう。基本的に風邪をひく方の俺は対処方法をしらない。取り敢えず頭に氷を。ってあれ?直に置いたらヤバいよね。母さんはどんな風にやっていたんだったか。パニクって正確な知識が出てこない。ああ本当になんで友のお母さんがいないんだろう。俺はこういうときに役立たずなのにっ。

ううっと友が苦しそうに呻く。俺はどうしようもなくあたふたして、取り敢えず彼女をベットに寝かせる。そのあと本当に熱なのかと確認するために手を額につけると燃えるように熱かった。慌てて手を退かして、そうだ濡れタオルと立ち上がることが出来たのはきっと俺が何度か自分で濡れタオルを準備していたことを思い出せたからだと思う。


濡れタオルをのせて、俺は一息をつく。彼女の容態はいいとはいえないけれど回復したとはいえるまでには良くなってきた。取り敢えず彼女を見ないように視線をずらすとこの部屋の異様な匂いに気が付いた。
……埃くさい
煙たい埃の匂いに噎せる。換気がされていない部屋は本の匂いと埃の匂いで一杯だった。俺は近くにあった窓を開けて換気をする。なんだこの部屋、古本屋さんみたいに喉につまる。息苦しさに呻いてしまうような雰囲気が漂ってる。多分この夥しい程の本棚に入っていない本の山が原因だろう。こんな中に居たのならば、熱になるのも当然だ。二三冊を手にとって、あるべき場所に戻す。うん、やっぱり本棚の中に入っていた方がいい。

床から拾い上げ、本棚を整理整頓していると、埋もれるような本の中から『マクベス』という題名が見えた。一息つくために座り込んで表紙をなぞる。何度も読み返した痕なのか、折り目がついていた。
ペラペラと懐かしげに捲り、んっと声をあげてしまった。栞が挟んであったのだ。色鮮やかではないけれど、茜色をした落ち着いた栞。彼女らしいといえばそうだけど、それにしては大人び過ぎているような気がする。まあ、本屋で貰った栞を気に入っただけかもしれないけど。深くは考えずに栞を抜き取ると、第三章が露になる。ここから先は何故だか読まれた後が見受けられない。彼女がまだ最後まで見ていないことがみてとれた。


「友……」


やっぱりキミは相変わらず、戯曲系に苦戦してるんだね。手の甲で口許を押さえて笑う。変わらない友に安心してしまった。


「また、本を紹介してあげるね」


呼吸をする友の髪を掬って口付ける。童話の王子様になりきったつもりで


「だから、早く目を覚まして」


額から取った濡れタオルは熱く、交換を促していた。俺は彼女の髪を離して水を浸しに行く。足取りは軽かった。だって彼女に触れられたのだから。






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -