幸村精市 五月二日
「丸井、ちょっといいかい」
「えっ、おお、幸村君。おっはー」
「おはよう。今日も丸井は元気だなあ」
次の日の朝、俺は朝練の前に丸井に話し掛ける。丸井はぱちくりと目を一度だけ瞬かせたがすぐに笑顔に戻ってバチリとウィンクをすると俺に挨拶してきた。それを返すといつもみたいにだろぃと自慢げに返された。いつもの朝の光景だ。昨日の非常時が嘘みたいにいつも通り。目蓋の裏に焼き付いている暗い体育館をふるい落としながら、柳との会話を頭の中で復唱する。大丈夫。緊張はしていない。ちゃんと伝えられる。
「ちょっと夕方残ってくれないかな」
「え、俺なにかした?」
「ふふふ、どうだろうね」
「意味ありげに笑うとかひでぇ!教えろよ、幸村君」
「あ、山木山と一緒にね」
「スルーされた。俺泣きそう……。というか山木山って、平の三年生の奴だよな。なんで一緒に?」
「さあて、どうしてだろう」
「なにこの煙たく巻かれた感じ!嫌すぎる!」
「兎に角、部活が終わっても残っておくこと、いいかい?」
「拒否ったら?」
「真田の鉄拳が火を吹くね」
それは嫌だわ。んじゃあ残ると仁王や赤也と違って往生際が悪くない丸井は即断即決で決めてしまい、俺にそれでいいよなと是非を説いてきた。首をカクリとふるとにっこりとまた笑われる。つくづく笑顔が似合う男だなぁ。髪赤いなと思っていると、何を勘違いしたのか丸井が拳をつきだして何かを差し出してきた。
「ん、幸村君も飴食べるだろぃ?」
「お、なんだか今日は気が利くね。じゃあ遠慮なく貰うよ」
丸井が差し出してきたイチゴ味の飴を舌で転がしながら、ふっと疑問に思ったことを口走っていた。ついつい気が緩んでしまっていたらしい。不覚だと思いながら、取り戻せない時間は無情に過ぎていく。
「愛鶴、か、なんか変わったよな学校復帰してから」
「そうだね」
その変わった原因の一つであるような俺が言うのもなんだけど、雪羅さんはかなり変わった。サナギが蝶に羽化したように、雪羅さんは大人しめから騒がしい人へと変化した。俺とあったときにはあの原型は出来ていたし、なんだかなぁと思う。
「でもちゃんとマネージャーはやってくれるし、俺としては文句はないよ」
「そりゃそうだけどよぃ。……なんか元カレとしてはさ、気まずい」
「こないだもその台詞言ってなかった?」
丸井の元カノは雪羅さんだけじゃない。こないだ緊急で赤也が連れてきたマネージャーさんとも付き合っていたらしく、凄い気まずそうだった。現在その子と赤也は付き合っているらしいから二重の意味で、凄く気まずそうだった。というか気まずいってこぼしていた。あまりにも中学時代羽目を外し過ぎたらしい。今では後悔してるって頭を掻く丸井だけど、そのわりにはあんまり周りにいる女の子の量ってかわらないような……。まあ、男子ってそういうものだよね。俺は友一筋だけど。
………なんのアピールだよ。
馬鹿じゃないか、自分。
一瞬自己嫌悪に陥りそうになって、立て直す。今俺はテニス部の幸村精市。オッケー。大丈夫。
「愛鶴とまたその気まずさが違うんだよぃ」
「そうなの?」
「そりゃな、なんたって俺、初めて女からじゃなくて自分からふったもん。しかも、相性悪かったからとかじゃなく、自主的にだぜ?珍しすぎて神経疑うね」
「俺は女の子をとっかえひっかえにしている丸井の神経を疑うけど」
「ひでぇ言い種、グサってきた」
そういいながらも、笑みを絶やさない丸井。分かってる。そんな雰囲気が辺りに流れ出ている気がした。俺と丸井の恋愛事情は違い過ぎるんだよなぁ。というか丸井と仁王と赤也が激しすぎるんだよねぇ。お前らそのうち性病にかかるぞとか真面目に考えちゃうもん。でも赤也はおままごとの程度の恋愛だから、そんなことにはならないけど、でもなんでか赤也って付き合っている人の回転が早いんだよなぁ。どこの二人の先輩に感化されたのかはきくまでもないけど、異常だと思う。仁王も十分異常だけど。
「愛鶴とはいい相性だと思ってたんだけどよぃ、まっ、縁がなかったっつうことかね」
「そう楽観的に捉えられるところが丸井は凄いよね」
「そうか?恋愛ってこんなもんじゃね?」
「………俺はそんな恋してないからね」
えと丸井の目が輝く。「何々、幸村君恋してんの?」野次馬みたいな目付きで面白そうに訊いてくる丸井にデコビンをして、いなす。全く、野次馬根性だけは丸出しだなぁ。こんなところが赤也にも移ったんだよ。
「仁王何処行ったか知ってる?」
「話しかえないで話そうぜぃ、えなにやっぱ」
「丸井、俺今から用事があるんだけど」
「あー、分かりましたよ、分かりました。この話しはまた今度な。仁王ならいつもの屋上じゃねぇの?そういえばあいつ、この頃恋愛事情ヤバい感じになってるらしいじゃん?それをおせっきょーしに行くわけ?」
「違うよ、この頃朝練への参加率が低いからレギュラー落としちゃうぞって警告しに」
「うへー大変だ。頑張れよ、幸村君」
「ん、じゃあ。時間取らせて悪かったね」
胸を押さえつける。大丈夫。俺はいつも通りに笑えていた筈だ。