起き上がると、蒸気が自分の体を包んでいた。シャツの張り付く感触がする。どうやら着衣したままお湯を掛けられているらしい。どうしてと頭の中で整理しようとした時、艶のある声が私を呼ぶ。
「起きたか」
跡部は、私と一緒にお湯を浴びたのか、ビショビショだった。シャツが同じく張り付いている。水分を吸った服からはポタポタと水滴が落ちてきていた。
「ここは?」
「風呂場だ。あったの気づかなかったか?」
気づかなかったもなにも、行けるところは決まっていたじゃないか。手首に付けられた手錠のせいで行動範囲は狭かった。
あれ? 手首を見てみると、ジャラジャラ音が鳴るはずのそれはどこにもなかった。そうか、あの部屋の中にはなかったはずだから、移動するために外したのか。
でも、なんで風呂場になんか?
「体洗いたかっただろ? もう結構経つし匂いもしてたぞ」
閉じ込めた本人が何を言ってんだ。出そうになる文句も、徐々に取り戻してきた記憶が押し殺す。
「げほげほっ!」
今更ではあるけれど、咳き込む。ああ、そうだ。首を絞められていたんだっけ。喉にあった圧迫感は消えていたはずなのに、違和感があって首元を抑える。それと同時に恐怖が襲ってきた。死ぬかと思った。跡部に殺されるんだって思った。壊されるんだって思った。寒い。ガタガタと体が震える。
「寒いのか?」
跡部の心配そうな声。そんな声でおもんぱかってもらってもさっきの仕打ちは消えない。
湯気で跡部の顔がぼやけていく。白いモヤに顔を隠された跡部はのっぺら坊のように見えた。
「風呂の中入れ」
どんと肩を押される。拍子に背中から湯の中に入っていった。ゴツンと底に頭が当たって浮き上がる。ぷは。息を吸い込むと跡部がふちに手をかけて覗き込んでくる。
「どんくせえ」
は、は。短く息を吐く。跡部はいったい何をしたのか。私を突き落した。もしかしたら沈んで死んでいたかもしれないのに。殺そうとしている。跡部はさっきから殺そうとしているんだ。首を絞めたり、水の中に無理やり落としたり。
湯気で見えないが、跡部の顔はなぜ殺せないのだろうといぶかしんでいるに違いない。髪の毛が張り付く。無様な顔を見せているに違いない。どうして私のことを殺そうとするんだろう。跡部が私なんかのことを執着してしまったからだろうか。そんなの私のせいじゃないのに。跡部のせいなのに。
もしかして、やっぱり私を殺すために閉じ込められたのではないのだろうか。そう思えば納得がいく。そうだ、跡部は私を殺そうとしているに決まっている。私と跡部が結婚するなんて跡部だっていやだろう。ぐちゃぐちゃになっていく。本当はそうではないことは分かっているのに、自分が理解しやすいように事実を捻じ曲げている。でも、そうじゃないと納得なんかできない。そうだ、絶対にそうなんだ。
「肩まで浸かれよ」
いつ殺そうか、跡部は今も考えているんだ。逃げなくちゃ。ここから逃げなくちゃ。今は手錠もない。今だったら逃げれる。どこに逃げよう。学校が近いっていっていた、学校に逃げ込もう。今がいつなのか分からないけど、学校に逃げればどうにかなるような気がした。ここから出られさえすればどうでもよかった。跡部から逃げれればそれでよかった。
「あああ!!」
奇声を上げて跡部に飛びかかる。不意打ちだったからか体が揺れて、床の上に転がる。そのまま体を立ち上がらせて、出口へと向かう。取っ手が見えてきた。あと二メートルぐらい。手を伸ばす。取っ手に手がかかった。ぽたぽた服から水が滴る。開けて走る。走る。走る。裸足のまま走る。滑ってしまいそうになるのを必死に堪えて走る。窓から見える景色は暗い。鈴虫の音が聞こえてきそうなほど静かだった。星がきれいに見えているけれど月は見えない。外は真っ暗で、辛うじて草木が見えるぐらいだった。
後ろから足音が聞こえてくる。追ってくる跡部の足音。段々と音が近づいてきた。振り返らずに前だけ見て走る。廊下は長く、一本道だった。そのうち、光が視界をかすめる。こっちだ。角を曲がって部屋の中に入る。
……あれ? 
見覚えがある部屋の中。鉄格子が見える。埃や塵は幾分か片づけられていたが、清潔感は相変わらずない。
閉じ込められていた部屋……! 血の気の引ける思いがする。私は自分でここに帰ってきてしまったのだ。足音が鳴りやむ。後ろが振り向けない。
「テメェ」
後ろから足で蹴られた。顔面から床へご挨拶する。背中に足が置かれて、脇腹を蹴られる。反動で転がった。上に跡部が乗ってきた。
「そんなに逃げたいのかよ」
冷たい青色なのに、燃えるように熱い瞳をしていた。怒りが跡部を包んでいた。腕が上がる。叩かれる。身構えると、胸をとんと力なく叩かれた。
「そんなに、かよ。どうしても、か」
覇気は消えていないのに。それどころか怒気が孕まれているのに、どうしてか胸をぎゅっと押さえつけられているような、苦しい気持ちが伝わってきた。どうして苦しいんだ。私のほうが苦しいよ。いつも私ばっかり苦しいよ。どうして跡部のほうが苦しそうにしてんの。分かんないよ。分かれないよ。
「泣くほど、かよ」
熱い滴が頬をつたう。それを跡部は優しく掬い取る。そんな優しくしないでよ。さっき叩いた頬を、今度は逆に労わるようにしないでよ。
「やだ」
もうこんなわけが分からない状況
「やだよぉ……」
家に帰してよ。もうわけわかんないんだよ。久しぶりにあった幼馴染にいきなり結婚しようなんて言われたって凡人の脳みそじゃあキャパオーバーなんだよ。どんなに言葉を並べられたって脳みそが受け入れることを拒絶しちゃうんだよ。
「ご、ごめ」
「……なんで謝んだよ」
「ごめ、なさ」
「もう、いい」
「え?」
「謝んなよ……」
どういうこと? 跡部を見ていると、私の上からのいてそっぽを向いた。
跡部の髪から滴が垂れる。ポタポタ床に飛ぶ。
「ゲームしようぜ」
「え?」
展開についていけない私を置いて跡部が喋りだす。
「簡単だ。犯人を当てるだけのごくごく簡単なゲーム」
「犯人を当てる?」
「まさか、俺様だけがテメェを閉じ込めたと思ってんのか?」
それはそうだろう。だって跡部が閉じ込めたって言っていたじゃないか。
「俺様だけならテメェをここにはおかねえよ。こんな埃っぽいところ。肺炎になっちまうだろうが」
どういうことなの?
「覚えてるか? テメェをここに連れてくる前にこっちを見ていた奴のこと」
確かにそんな人がいたような気がする。こっちを向いていた人影。でも、顔は確認できなかったはずだ。だいたいその人になんの関係があるっていうんだろう。
「そいつに見られていたんだよ。だからなくなくテメェをここに連れてきた」
「どういうこと?」
「そいつが脅してきたんだよ。テメェを監禁していることを知られたくなければテメェ自身に犯人当てをさせろってな」
「え? え?」
「目的は分からねえ。だが、テメェが犯人を当てたとき、解放するように言われている」
じゃあ、犯人を当てたら出られるってこと? でも、犯人は跡部じゃないか。なのになんで出られないんだろう。意味が分からない。
「テメェが当てる犯人はその脅してきた奴だ」
「なんで」
「そんなことする意味があるか、か? 俺様にも分からねえよ。だが、確かにあいつを見つけなくちゃいけない」
テメェが此処を出るためには、と跡部は言う。その人は私に希望をくれたのに、なんでそんなことを言ったのだろうか。犯人が跡部だというのならば私でも分かったはずだ。でも、もう一人の見ていた人なんて、どう探せばいいのかもわからない。
「出たければ記憶をたどれ。じゃねえと一生閉じ込められたままだぜ」
跡部はすたすたと歩いて、鉄格子にかけていた手錠を手に取る。逃げようとドアに視線を投げるがこの距離じゃあすぐ捕まってしまうのは分かっていた。
それに、希望ができたじゃないか。もう一人の犯人。その人を当てれば帰れるんだ。跡部は約束を反故になんてしないだろう。だったら当ててしまえばいい。
「犯人を当てたら出してくれる?」
「……ああ」
跡部はそういうと私の手首をつかんで引き寄せる。
訪れたのは、柔らかな抱擁。壊れ物を扱うぐらい柔らかに包まれる。
「犯人を当てるな。…………犯人を当てろ」
矛盾する二つの言葉。今更分かった口を利くようだけれども、全く反対の気持ちを持っていることに気が付いた。顔を見ようとして、跡部に頭を押さえつけられた。
「うん」
いつの間にはなくなっていく跡部の体温の代わりに冷たい手錠がかかる。
跡部は一回部屋を出ていき、数分してタオルやらなんやら一式を持って入ってきた。自分の姿を思い出して、渡されたタオルにくるまる。跡部はあきれたような、だが、穏やかな笑みを浮かべた。













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