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大変遺憾なことだが、サボろうとしたら不肖の後輩殿がとおせんぼをしてきた。右に行くと右に、左に行くと左に移動される。日本人特有のなんとも言い難い気まずい以心伝心だったらよかったのだが、後輩殿は私が動いたあとに動いていた。どう考えても遊んでいるとしか思えない。溜め息をつくと、財前君の疲労の声が聞こえた。
なんで彼が疲労感を感じているんだか。
「先輩、教室に戻って下さい」
「君こそ、チャイム鳴るよ」
「先輩、これ以上サボったら卒業できへんっすよ」
「もう一年、財前君と過ごすのも悪くないんじゃないかな」
軽口を叩くと案外財前君が乗る気だったようで息を詰めていた。冗談だよというと、強張っていた顔が弛緩する。
「でも、今日はサボる」
「…………冗談が冗談じゃないやん」
「大丈夫だって、単位の計算ぐらい出来るよ。馬鹿にしているのかい?」
「そういうわけないですけど」
ならばどういうわけがあるのか。
視線を交わらせると、観念したように目が臥せられる。
「先輩、なんか悪いこと考えとりません?」
「輪道さん?」
「……うっ」
分かりやすい後輩は簡単に口を割ってしまった。いやはや、輪道さんは私が白石君の下駄箱に用があったことを財前君に伝えてくれちゃったわけだ。なんて軽率な口をなんだろう。縫ってあげたくなるぐらいだ。
「悪いことって例えばどんなのかな?」
「その、いろいろっすわ」
「ぼかすなあ。そうぼかさなくてもいいのに」
「……白石先輩になにしたんすか?」
「酷いことすると思う?」
「先輩なら可能性がないわけやないと思います」
「それは輪道さんが言ったの?」
「今、それ関係ありますか?」
「輪道さんが言ったんだ」
「っ、だから」
苛立つことは分かりやすい目印だ。顔を歪めた財前君。自分が正直者ということに気が付いていないらしい。それにしても輪道奏愛という人物はとことんめんどくさい。後輩を使って牽制してくるだなんて思いも寄らなかったなあ。
「財前君、なんだ、君、ますます輪道さんのことが好きになってしまったの?」
「奏愛先輩は勿論好きっすよ。当たり前やないですか」
「私よりも?」
昨日訊いたことを再度問いかけてみる。そうすると財前君はわかり切ったことを聞かれてめんどくさいと言わんばかりに答える。
「勿論っすわ…………あれ?」
そして、違和感に気が付いたのか、指を口の方へと持って行く。
唇がつり上がる。そうか、そんなに変わってしまうものなのか。昨日、財前君はこの質問に沈黙を返した。彼の中で私と輪道さんは変わらない立ち位置に居たのだ。でも、今日になっていきなり輪道さんが上に立ってしまった。財前君の知らぬ間に、いつの間にか。これが少女漫画に良くある知らず識らずのうちに気になっているというのならば話しは漫画みたいに素敵なこと、だろう。だけど現実で一日で意見が、人の好感度がそんなに上がるだろうか。
上がったとして、財前君にとっては特殊な立ち位置にいると言わざるをえない私を越えられるのだろうか。
「違っ、そんなことやなくて……」
「どうしたの、財前君? 輪道さんのことが私よりも好きになったんでしょう? それはとても喜ばしいことじゃないか。どうして君はそんなに狼狽えているの?」
「奏愛先輩が先輩より好き? ちょ、ちょっと待って。待って下さい。なんかの冗談やろ? どうして、奏愛先輩の方が好きになっとるんや?」
んん? 財前君にも原因が見つけられないのかな? それは益々おかしいし怪しいなあ。
「だって今日、俺は先輩のこと危険だよって奏愛先輩に言われて、怒っとったんっすよ?」
そんな言い方してたんだ、輪道さん。
まあ、確かに普通だったら、好きな人に危険な人だって言われたらホイホイ鵜呑みにしちゃうよね。それが人畜無害そうな人だったら特に。
「先輩が危険人物なのは確かやけど、いうほどっちゃいますし、先輩だって考えがあるって」
財前君の言いようも酷いものがある。危険人物って、先輩に使うものじゃないでしょう。
「でも、奏愛先輩に言っても分かってはくれないだろうから黙ってたんに、なんでなん……」
財前君は口をなぞりながら震えた声で言う。
「なんでそんなことも忘れて先輩のこと疑っとったんや……」
震える声がある疑問を浮かび上がらせてくる。
「疑う? 私を、かい?」
「……すんません」
「疑うも何も、財前君、私が何をしたと疑われていたのかな?」
「あっと……それは」
「それは?」
「白石部長の靴箱に」
「ラブレターが入っていたってことかな」
言うが、財前君は困惑したように頭を振る。
「ラブレターってなんことですか?」
私が今日いれた白石君への手紙だけれども、それではないらしい。おかしいなと頭を傾けると、財前君が気を取り直したように続ける。
「今日入ってた、詳しく言うとかけられていたいたちゅうのがいいんでしょうけど、上履き諸々に浴びせられていたコーヒーのことです」
「………………コーヒー?」
話しをきいてみると、なかなかどうして面白い話しだった。
今日、早朝のことだ。白石君が登校して来たら彼の上履きの上にコーヒーがぶちまけられていたらしい。インスタントの香りでほのかに湯気が立っていたというのだから、かけられてからそう時間は立っていないだろうと白石君は推定したようだった。とはいえ彼は犯人探しをするつもりはなないという。上履きの変わりに今日一日スリッパで行動してからかわれまくったのだとか。最後のは余談だったが、面白い話には変わりがない。
ちなみに、手紙の類いの有無はきいていないらしい。
話し終えた財前君は、私を見ながら不承不承と問いかけてくる。
「先輩がやったんやないですよね」
「コーヒーを他人の上履きにぶちまけることに何の意味があるのかは知らないけど、私だったらコーヒーじゃなくて水を用意するね」
わざわざ百二十円も出して自動販売機で買うものか。
「そうっすよねえ」
財前君は自分の謎な回路に理由がつかなくなったのだろう。黙り込んで考え始めてしまった。
この後輩殿の頭の中がどうなっているのか気になったが、そうそう覗けるものでもない。困って視線を彷徨わせると、ふっとある考えが思いつく。
白石君の上履きにコーヒーをかけた人物は一体いつコーヒーをかけたのだろうか。
私が白石君の下駄箱に手紙を入れたのは白石君が登校してくる前だ。輪道さんはいたが、普通の生徒からしてみれば早い時間だ。部活動生しか用がないだろう時間帯。そんな時間にいた人物が犯人ということになるのだろうか。
だから輪道さんは私を疑ったというわけなのだろうけれど。
「財前君、沈思黙考中悪いけど、輪道さんが私のことを言っていたのはいつかな」
「部活来てからすぐっすけど。俺はその後に白石部長のこと聞いたんで覚えてます」
「なるほど、君は私を疑う気持ちも分からないではないよ。危険だって言われた後に、白石君の上履きにコーヒーがかかっていたんだからね」
「ちょっと待って下さい。そもそもなんで先輩と白石部長が結びつくんや?先輩と白石部長にはなんの面識もなかったやろ?」
「きいていない? 私、白石君の下駄箱に用があったんだ」
「先輩が犯人なんやないですか!」
「軽率な考えだな。違うよ、私は」
「いやいや、流石にそれは疑いますいて」
輪道さんもこうやって疑ったんだろうが、だがしかし、ちょっと、ねえ。
「財前君、掛け算の順番ってめんどさかったよね」
「いきなりなんですか?」
「いや小学校時代を思い出してね。十円の林檎が五個ありますって問題で、5×10は駄目だったよね。答えは同じなのに」
「はあ、そりゃあ五円の林檎を十個買う計算になっちゃうからやないですか」
そうなんだよね。頷くとますます財前君は困窮した顔をする。
「そうだね。式によって問題が書き換えられているから問題なんだよね。答えは一緒でも、至る道筋が違うから問題なんだ」
「小さい頃めんどくさって思っとりました」
「そうだね、私もだよ。でも、それって実はとても大切なことなのかもね。だって五円の林檎なんてないわけだし」
「それいうたら十円の林檎もないですよ」
「それもそうだ。消費税をつけなきゃね」
「そっちやないです」
「それに林檎を十個もまとめ買いはしないし」
「お菓子作るんやったら別っすけどね」
「というわけで」
「接続詞がおかしいっすわ」
「細かいことは気にしない。で、財前君、おかしいね」
「はい?」
あらら、この愚鈍な後輩殿は人の話しを聞いていなかったのか。それとも良くある与太話だと思われたのか、後半の方だとは思うけど、それでもヒントを言っているのだ。少しは考えるべきだろう。突き放すと子犬のような目で見られた。残念ながら、後輩教育には一家言ある。甘やかしたりしない。
ツンと顔を背けると、キンコンとチャイムが鳴った。
「財前君」
「あー」
「サボるけど、付き合う?」
「…………ほんまに一年留年しそう」
先生に見つかると厄介だ。そそくさと場所を移動する。
廊下はやがて静かになり、私と財前君の足音がやけに響いた。
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