■ 浴槽の深海魚

 名前は呼吸を出来ずにもがいた。後頭部をあの白い指が髪の毛に絡み、何度も力を込めて、名前の頭を浴槽に突っ込む。
 口と鼻から肺の空気が押し出されて、ついに我慢のしようがなくなる。いっそうもがく名前の頭を掴み上げた黒子は、自分の服が濡れてしまうのも構わずに、呼吸をさせた。
 湯気が薄く出ている浴槽に頭を出し入れされ、髪の毛を掴まれて、生死をさ迷いそうになる。
 何故こうなったのかは分からない。ただ同棲をしていた黒子が豹変したのだ。名前の一言によって。

「私、引っ越そうと思うの」

 近くのマンションに。
 黒子の大きな目は、さらに見開かれ、次の瞬間にはビンタを喰らっていた。
 反動で床に投げ出され、痛みに涙を滲ませる。どうして?、と問う前に黒子の白くて儚い印象を与える骨張った手が名前の顔面を殴った。
 犯罪の域に達した彼の衝動に名前は堪える。頬が切れて血が滲んでも、瞼が青く腫れてきても、その手は勢いを増すばかりだった。
 意識が昇りかけたとき、つかぬ間の休息がやってきた。しかし名前には逃げる体力も気力も残っていない。胸中は疑問から無に変わっていたからだ。
 黒子の腕が名前を抱き上げると、すたすたと風呂場へ歩く。その時の黒子の表情は冷たく侮蔑を含んでいた。白い手には名前の血が着いている。そのようすを名前は瞼の隙間から覗いていた。
 そうして冒頭に戻る。





 バシャバシャと暴れる水面の中、名前は再び頭を浴槽に突っ込まれていた。
 意識が遠退いては、浴槽から引き上げられ、呼吸を少しすると再び水の中へ。
 名前の浴槽に着いていた手がダランと垂れて抵抗がなくなる。そこでやっと引きずり上げられた。
 冷たい床に放り投げられ、黒子が馬乗りになると、唇を重ねて胸のしたをグッと押す。息を吹き込んでは、肺から空気が抜けていくのを見、胸のしたを再びグッと押す。





 気がつけばベッドの上だった。髪と服は湿っていて、ベッドの端には黒子が腰掛けている。
 紙を捲る音がやみ、黒子が名前を見据えた。

「おはようございます」

 本をサイドテーブルに置くと、小さな声で彼は囁いた。

「…考え直してくれますよね?」

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