▼ 蜜柑

 黒子は小さくため息をついた。
 隣でファッション雑誌をめくっていた名前が顔を上げる。
 そこで初めて目が合った。女子特有の甘い香りのする部屋の中、黒子は再びため息をつく。

「…テツヤ?」

 普段、感情を出さない黒子が、ため息をついた。そのことが気になったのだろう。
 黒子は何も答えずに、目を伏せるだけだった。

「どうしたの?」

 名前が雑誌を傍らに置いて、黒子の顔を覗き込む。黒子の手にある文庫本は栞が挟んであったページから全く進んでいない。

「名前…、ボクは」

 バサリと文庫本が手から滑り落ちる。
 黒子は顔を伏せた。

「汚い人間なのでしょうか?」

 黒子の質問に名前が目を丸くする。
 一体どうしたのだろうか。時計の秒針がチクタクと時間を刻む音だけが聞こえている。
 そんな沈黙もすぐに途切れた。

「汚いのは皆じゃないの?」

 黒子は俯いたまま、人差し指に出来たサカムケをいじる。

「私は嘘もつくし、今だって適当に綺麗事ならべてるだけかもしれないよ?」

 名前は黒子の頭を撫でた。さらさらと言うより、つやつやの髪質で、見た目に反する剛毛。
 鮮やかなパステルブルーの髪の毛が、名前の指に絡む。

「それは名前がボクを騙している可能性があるってことですか?」

「そうなるね。でも実は親身になって考えてるかもしれない」

 黒子が顔を上げる。名前は黒子の手を引いて、立ち上がる。

「名前…」

「来て」

 黒子が重い腰を上げると、部屋の隅にある本棚へ移動した。
 シリーズ別に並んだ本の中から、芥川龍之介の短編集の三を抜き取る。
 芥川龍之介なら大体読んだと思うが、何を見せようというのだろう。
 パラパラとめくっていたページが止まる。そのページを黒子に手渡した。

「はい。読んでね」

 題名は『蜜柑』。読んだことがある。
 黒子がどういうことだと、名前を見下ろすが、名前は既に別の短編集を見ていた。
 仕方なく蜜柑に目を通す。面倒で最初は読み飛ばしていたが、中盤に入って黒子の心をドキリと射抜いた。

 蜜柑といえば、奉公に行く女の子が列車の中から蜜柑を投げ、見送りに来てくれた兄弟たちに報いる話だ。
 女の子と相席をしていた男は不快に思うものの、少女の無垢さが羨ましく感じる。
 男の心情は芥川龍之介と同じ。上手く仕組まれた文章と独特の暗喩は彼の特徴である。
 それらに相対している少女は芥川龍之介にはないものを持っている。

 黒子は蜜柑を読み終わる前に短編集をすぐさま閉じた。
 名前も黒子の動きに合わせるかのように本を閉じる。
 黒子は冷や汗をかいていた。

「私の言いたいことが分かる?」

 名前は黒子から本を取ると、元あった場所へ戻す。
 黒子はやれやれと、ため息をついた。

「やはり名前には敵いませんね」

「そう?」

 意地悪く、クスクスと笑う名前が黒子を見上げた。

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