▼ 痣
※暗い
※夢主が園児
その子の手には痣があった。新人の保育士になって半年。ボクは園長先生にその子のことを見張るように言われた。
なぜ?だなんて聞けなかった。その子はもう未来がないと園長は言ったからだ。
「ほら、名前、新しい手袋ですよ」
話しかけても反応がないのはいつものことだ。分かっていながらもボクは話しかけていなければならない。
その子の髪の毛が一房抜けるたびにボクは抱きしめた。よれよれのスモックが、もっとよれよれになっても抱きしめた。
その子が胃酸を吐き出し、発熱した時も小さな手を握りしめて大丈夫だなんて保証のない言葉をかけ続けた。
「今日はグラウンドに行きましょう」
名前を立たせるとよれよれのスモックからほつれた糸が出てきた。今日は顔に痣ができている。腕には火傷の痕があった。
園長まで見捨ててしまった園児を守るのはいまや黒子しかいない。そうして毎日を過ごしていた。
グラウンドに出るために名前の手を掴むと、人形のようにダラリと垂れ下がる指先が虚しく血を滲ませていた。乾燥して切れてしまったようだ。黒子がハンカチを取り出すと、先に洗面所に向かおうと声を掛ける。
深夜を過ぎた頃だった。けたたましい着信音が黒子を叩き起こした。ディスプレイには青峰くんと表示されている。
寝ぼけ眼で通話の文字をタップした。すると罵声に近い青峰の声が黒子の耳に劈く。
「あ、おい!!出るのおせーよ!!テツ、今すぐ緑間んとこの病院に行け!!」
「どういうことですか?」
「お前の幼稚園の園児が「すぐ行きます」
青峰の声を遮って通話を切った。スウェットの上からでジャケットを羽織って、家を飛びたした。
自転車を引きずり出すとそのまま道路へ飛び出す。寒い外は、黒子の息を白く染め上げる。
緑間の勤務する病院は近場である。自転車を使えばすぐだ。信号を無視して、病院のある方へと向かった。
黒子がついた頃には青峰が、小さな塊を抱いていた。近づけばその正体は簡単にわかった。
「名前!?」
黒子が青峰から奪い取ると顔を覗き込んだ。少女はいつもと変わらない表情を浮かべて、毛布に包まっていた。
「テツ、そいつは平気だ。けど…」
何故か青峰は煤だらけで、そして暗い表情をした。廊下の奥から見慣れた人物が歩いてくる。
「火神くん、緑間くん」
火神がいるということは火事だったのか。黒子の腕の中の少女は少しだけ笑っていた。そして、黒子の服を引っ張った。
「ママとパパがしんだよ」
初めて聞いた声。衝撃の告白。凍りつく空気。緑間が唇を噛み締めた。
「え…」
「パパがね、私のことを殴るの。でもね、今日は殴ってこなかった。だってお家に帰ったら紐に頭をつるしてしんでたから」
なぜ、こんな時に限って饒舌なのだろう。らんらんと輝く瞳は真っ直ぐ黒子を見つめていた。
「ママが、パパがしんでるって叫んでた。お家に火を点けた。でも私生きてる」
なんで?
黒子は目頭が熱くなるのを感じた。そして涙が零れた。
自分の園児になぜ自分が生きているのかと聞かれた。その事がショックだった。
「ごめんなさい…」
黒子が泣き崩れた。寝癖だらけの髪の毛が名前の頬に当たる。少しくすぐったそうに目を細めた。
「せんせい、泣いてる。なんで?パパとママは死んだからせんせいは私のことなんて心配しなくてもいいのに。これからは他の子と遊べるんでしょ?」
私は遊べないけど。と囁くように言う少女は汚れを知らないようだ。これで黒子が幸せになるとでも思っているのだろうか。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ボクが…、先生がちゃんと守ってあげなかったから…」
「パパとママが死んだからいい事でしょ?なんで悲しむの?」
完全に感覚がおかしくなっていた。少女の思考も、その場にいた彼らも、言葉の一つ一つを聞くたびに、戦慄していた。
親が死んで喜ぶ少女は黒子の涙を手で何度も拭う。そしてこう呟いて笑って見せた。
「すたんでぃんぐ、おべーしょん…、だよね?もう、怖いのいないから平気」
スタンディング・オベーションという言葉を教えたのは紛れもない黒子で、過去の自分を恨みたかった。まさかこんな形で使われるとは思ってもみなかったからだ。
わかっていたけれど、ボクは頷くことも首を横に降ることもできなかった。
「名前は…、どこか悪いのかもしれません。ボクのお家に帰りましょう?ね?」
「…せんせいのお家に帰る」
せんせいの?、せんせいの?、かえる?と繰り返す少女の声は深夜の病院に響き渡った。
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