▼ 聾唖

 黒子は困り果てていた。目の前の女子生徒はニコニコと笑ったままである。
 彼女の名前は名前。今まで学校に来ているのを見たことが無かったが、最近は登校するようになった。それはいいことであるが、気味が悪いくらいに、ずっと笑っている。
 そして、反応がイマイチ分からない。ずっと一人でやってきたクラスの仕事も彼女が加わって、少し楽になるのかと思えば、そうではなかった。

「あの、これを担任の先生に渡してきてほしいんですが」

 名前は黙って笑っていた。聞いているのかと怒鳴ることはしなかったが、少し苛立ちが募っていた。

「あの…」

 名前は口をパクパクと動かすと、ポケットから紙切れを取り出した。紙切れを受け取ると、バニラシェイクの割引券だった。そして、彼女は上機嫌で教室を出て行ってしまった。
 もちろん仕事は残ったままだった。






 今日も黒子は名前と仕事をしていたのだが、全く動くことのない彼女はやはり笑っている。
 もう、そんなことには慣れてしまった黒子は何も言わずに仕事をこなしていた。何日も、何日も。二人でやれば終わる仕事だが、黒子は二倍の時間をかけていた。

「あの、もう帰っていいですよ…」

 今日もニコニコと笑ったまま、反応を示さない。しかし、唐突に黒子の手を掴んだ。そして、またあの割引券を握らせる。たまに、渡してくる割引券。

「あの…、」

 彼女はやはり笑うだけで困っている黒子のことなど知らないように、ただ手を握るだけだった。そして、上機嫌で教室を出て行く。
 黒子は少しその場で唖然としていたが、時計を見て部活に行かなければとため息をついた。





「黒子ー、お前さ、最近部活くるの遅くね?」

「だから係りの仕事だって言ってるでしょう」

 火神くんは学習能力が乏しいんですねと言えば、彼は切れて掴みかかってくる。毎日こんな調子で疲れないのだろうか。
 そんなとき、気づいた。タオルが一枚足りない。きっと教室に置いてきたのかもしれない。
 さっさと着替えを済ませて、部室を出た。





 当然、教室には誰もいないと思っていた。しかし、引き戸に手を伸ばした所で啜り泣く声がする。むしろ啜り泣くというより嗚咽に近かった。
 そっと引き戸を開けて、こっそり入ると、タオルを掴んだ。啜り泣く声は止まずに、チラリとそちらを見た。

「え、…苗字さん?」

 紛れもない彼女の後ろ姿に黒子は驚いた。何よりも驚いたのは、彼女が泣いているということ。
 ニコニコと笑い続ける彼女のことを気味悪がって誰も話しかけはしない。けれど、火神とは何か授業中に手紙を交換していた気がする。
 黒子の存在に気がついていないのか、彼女は一生懸命に机を雑巾で拭っていた。涙を零しながら。ゴシゴシと手まで擦り切れてしまうのではないかと思うほどに。

「苗字さん、…」

 なんだか放って置けなくて、後ろから肩に手を掛けた。すると、名前は驚いて振り向いた。泣きはらした目は、赤くなっていて、涙がとめどなく溢れていた。
 一生懸命に拭っていた机を見ると、サインペンで大きく"聾唖"と書かれていた。

「ろ、ろう…あ?」

 彼女は慌てて机の文字を隠す。そして、口を動かした。

「──────!!」

 言葉にはならずに母音だけが時々漏れる。そうして気がついた。彼女は聾唖なのだと。

「……」

 泣いている彼女の手をとった。そして頭を撫でた。

「大丈夫ですよ」

 彼女には聞こえるはずがないのに、何度もそう囁いた。そのうち崩れ落ちてしまう彼女を支えて、抱きとめると、一層泣き出してしまった。





 その後、黒子も机の上のものを消そうと頑張ったが、どうしても消えなくて教師に任せた。
 名前は生まれつきの難聴で話し言葉が話せないらしい。彼女がただ笑っているだけだつたのは、単に言葉が分からないからという理由だけではなかった。
 笑っていないといけないという概念があったようだ。それは何か意思表示をしなければならないという固定概念からだった。あれで彼女なりの意思表示だったのだ。それが精神面まで侵食していた。
 彼女のノートには火神からの手紙が挟まれていた。悪いと思いながらも、名前が職員室にいる間に見た。
 その中身は、黒子のことばかりだった。

 "黒子はマジバのシェイクが好きだぞ"
 "あいつは犬が好きだ。部室にもあいつにそっくりの犬がいるぜ。今度見に来いよ"
 "黒子の好きなタイプとか聞いたことねぇな。結構、本とか読んでるから文学系かもな"

 隣同士の二人はこんな話をしていたのか。黒子はそっと手紙を戻した。なんだか、自分が虚しくなった。彼女に対して腹を立てたこともあった。そんな自分が情けない。
 口を閉じて耳を両手で塞いでみた。なんて心許ない世界なのだろう。


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