▼ 林檎
この世界の始まりが本当にアダムとイヴの運命の果実、林檎だとしたら、ボクの始まりは一体何なのだろう。
栄光は実は虚像で、幻覚であったならば、それは黒子にとって、ただの悲しい思い出になってしまう。
あの15歳の暑い夏の日も、友人の絶望した顔も、残されたリストバンドもただの思い出に成り下がるのか。電子得点板に表示された"1"の羅列も、くらくら痛んだ頭も、心も。
しかし、その日は彼の分岐を作った日でもあった。
誠凜高校の先輩の誰かが落としていった、身分証を拾って、彼らを追ったときにはもう試合が始まっていた。
彼らの試合を見て、自分が情けなくなる。虚しくなる。羨ましくて堪らなかった。彼らとプレイをしたい。けれど、黒子の瞳には乾いた悲しみが渦巻くだけだった。
傷口に塩を塗り込められたようなヒリヒリとした感覚。過去に確かに存在した喜びも、悲しみさえチームメイトにはない。
しかし目の前の彼らにはあるはずだ。なぜなら彼らは真剣な顔つきの裏側はとても楽しそうだったからだ。黒子がしたかったバスケがそこにある。
これが運命ならば、なんて残酷なのだろう。自分の大好きなものが、自分を傷つけるように切りかかってくるのだから。
∝∝∝
絶望の三連覇は終わった。地獄のような残りの中学校生活も終わった。三年間で得るはずだった充実感は、そこにはなく、あるのは人形のような自分だけで、手の平には何も残らなかった。
卒業証書を見て、解放された気もしたのに、過去に飛んでしまいたいと願う自分もいる。
憧れの私立誠凜高校への切符だって持っているのに、気持ちは沈むばかり。
同級生の輪の中から、いたたまれなくなり抜け出した。俯き、とぼとぼと歩いていれば、あっという間に門出の校門に来てしまう。終わった。終わったんだ。
そんな開放感を求めていたのに、突如友人の先輩の言葉を思い出し、胸が苦しくなる。
君にはバスケを続けてほしい、その言葉が頭の中に突如響いた。門出の門を越える勇気が徐々に失せてゆく。
「テツヤ」
優しく芯のある声が鼓膜を震わせる。黒子はゆっくり顔を上げた。
数歩先には名前がいた。
「名前…先輩」
弱々しく言った黒子は、卒業証書を握りしめた。一縷の迷いが揺らぐ。
名前は帝光中学校の女子バスケットボール部のOGである。一学年先輩の二軍選手だったひとだ。
「卒業おめでとう」
名前の無邪気な笑顔が黒子の瞳には焼き付いた。まるで、光だった彼や、大切な友人の笑顔に似ていた。バスケバカの笑顔だ。
彼女は黒子の中学校生活、最後の一年間を知らない。連絡を取っていなかった訳ではないが、話すつもりも無かったからだ。
「…ありがとうございます」
礼を言うと、名前が口を尖らせた。黒子が落ち込んでいるとでも思ったのだろうか。何しろ鈍感で優しい彼女のことだ。きっとそうに違いない。
本当は落ち込んでなどない。自分の腑甲斐無さに腹が立っていただけ。そして踏み出せぬ門出と決意の揺らぎに躊躇っていた。
「テツヤ、一緒にご飯食べよう。卒業祝いってことで奢る」
先輩ぶる彼女は卒業祝いという言い訳をつけると、マジバの割引券をバックから取り出して見せびらかした。顔はムッとした表情なのに、誘いの手は優しい。
「…ですが、」
何かを言いかけた黒子に、名前が舌打ちをした。ズカズカと歩み寄ると、手をとって、校舎をあっさりと出てしまった。
「たった今、テツヤは巣立ちました!正式に卒業しましたッ」
黒子は手を振り払うことも出来ないまま、唇を震わせた。そうだった、忘れていた。彼女は鈍感で優しいけれど不器用なんだった。黒子と同じで器用に見えて、不器用。
視線誘導、もといミスディレクションをやってのける黒子。聞くだけなら器用だが、手先は心と同じくらい不器用だ。
「吹っ切れろ。そしたら自然に涙が出る。誰かに見られまいと涙をとめようとする。…するとね迷うこともやめてしまうんだよ」
黒子は卒業証書を地べたに落としてしまった。カロンと軽い音をたててコンクリートを小さく転がる卒業証書を拾ったのは名前である。
指先が震えていた。涙腺の崩壊を食い止めようと眉が眉間にくしゃりと寄る。わなわな震える表情筋。目頭が熱くなった。
じわじわと何かが溶けて溢れてくる。ダムが全壊して涙は頬を伝った。
全中以来だ。泣いたのは。
「ふぅっ…ぅ、せんぱ…」
名前が黒子の正面に立つ。抱きしめはしなかったが、黒子の後頭部に手を添えて撫でてやった。自然に頭を下げた黒子の額が、名前の肩にのしかかる。
少し寒い風が二人の間を歩いていく。
「よしよし、大丈夫だからね」
私がついている。だから安心して、と暗示させる言葉。黒子は目一杯に考えた。涙をとめる方法を。
∝∝∝
すっかり目元が赤くなってしまった。バニラシェイクを啜る黒子を見ながら、なんとなく、自分の爪を撫でる。
黒子はすっかり泣き止んでいた。巣立つ前の彼はあんなにも弱々しかったのに、今はとても強い光を瞳の奥に感じている。
「…先輩」
「なに?」
「ボク、誠凜高校に入学します」
名前は目を丸くして固まった後、嬉しそうに頬を朱に染めて、歓喜の声を上げた。
黒子はもう迷ってなどいなかった。
これも運命ならば、ボクの始まりは彼女からなのだと分かる。林檎一つに惑わされる人生なんて嫌だ。
アナログテレビがデジタル放送のように切り替わり、転機が訪れた。
鮮やかなカラーテレビのように映し出された、黒子の世界は輝いていた。
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