■ わたしがそうっと還る場所
朝、目が覚めて時計を見た。もう夏の陽射しが窓から差し込んでいる。
時刻はもう10時過ぎだった。
何だか怠くて、ベッドから出たくない。それでもベッドからはい出ると、鏡を見た。
少し赤い顔をが写る。夏風邪は馬鹿しか引かないんだ。なんてことだろう。
病院に行かなくては、と仕方なく着替えを始めた。
ふわふわのワンピースを着て、手ぶらで家を出ると、自転車置き場の自転車をガタガタと出す。
ふらふらと方向を定めて、サドルに跨がるとゆっくり漕ぎ出した。
『(日曜日でも診てくれるとこ・・・・)』
確かあの辺りに、と頭で地図を思い浮かべる。そこから最短ルートを割り出し、道を進んだ。
∝∝∝
意識が一瞬途切れそうになるのを繰り返しながら、たどり着いたのは日曜日でも診てくれる病院だった。
"黒子"の表札を探してにアパートの階段を上がる。
二階の奥までたどり着くと、おもむろにチャイムを押した。
するとどたどたと歩く音がして、すぐにドアが開いた。
「どちら様で・・・、名前?」
黒子の怪訝な顔が名前に向けられる。
名前は途端に、へらりと笑った。
『ひさしぶり〜』
黒子は様子のおかしい名前をまじまじと見て、赤い顔と異様な呼吸に違和感を覚えた。
そして名前の頬や首元、額に手を当てたり滑らせたりして、異変の正体にやっと気が付いたようだった。
「熱があります!馬鹿でしょう!」
珍しく怒鳴った黒子に名前は茶化すようにして片手をふらふらと振った。
『日曜日でも診てくれるとこ、ここしかなくて・・・』
黒子の家のドアに苦しくてもたれ掛かると、少し安心した。
今にも倒れそうで不安だったからだ。
「・・・・う、まぁ、頼ってくれたことは嬉しいですが、メールなり電話なりすれば良いでしょう」
黒子がドアにもたれ掛かる名前の腕を首にまわすと、部屋へ招き入れた。
名前は力が入らなくて、霞む視界の中で一生懸命に動く足を眺めた。
『テツヤー・・・、今年から保父さんなんでしょー・・・、おめでとー・・・』
「なぜ、このタイミングで言うんですか」
『忘れてたから』
保父になってもう二ヶ月は経っている。唐突な話の展開に、相当やられているなと黒子は確信した。
短い廊下を抜けると寝室に入る。
黒子とは高校からの付き合いだ。歩んできた道はそれぞれ違うが、恋人であることは違わない。
「もう・・・」
名前のおかしいテンションに呆れつつ、ベッドに寝かせた。
ぐったりと動かなくなった名前の汗を拭おうと、タオルを取りに寝室を出ようとしたとき、Tシャツの裾がピッと伸びた。
黒子が振り返ると、名前が弱々しくTシャツの裾を握っている。
行かないでと目で訴える名前の手を握ると、優しく裾から離す。
「タオルを取りに行くだけですから」
ね?、と子供に言い聞かせるように言う黒子に、名前は必死で嫌だと、涙をうっすら浮かべて首を横に振った。
困り果てた黒子が仕方なくベッドの端に腰掛ける。
「名前、わがままな子にはバチがあたりますよ?」
そうやって園児をあやしているのか、と脳の片隅で思いながら黒子の頬に手を伸ばす。
『バチがあたっても良いから、わがまま言っていい?』
「言った傍から・・・」
黒子が名前の前髪を掻き上げた。
ふわりと風がカーテンを揺らして舞い込む。
『抱っこ』
黒子は目を細めて、ベッドに寝転がると、白い腕で名前を抱いた。
「手間のかかる子供です」
名前が心地良さそうに黒子の胸板に額をこすりつけた。人肌はとても気持ちいい。
何よりも効く薬だ。
『ありがと』
高校の時とは違う、大人らしい男っぽさに惚れ惚れしてしまう。
なんだか腕がまた逞しくなっただとか、腹筋が少し割れているだとか、身長が伸びただとか、いろいろ思う。
腕や腹筋が逞しくなったのは、高い高いや園児を腕にぶら下げたりしているからかもしれないと考えていると、黒子の指が髪の毛に絡む。
「・・・なに考えているんですか?」
黒子の唇が首筋に触れた。
『テツヤの、こと・・・』
そのまま意識が沈んだ。
夢でなければ、そのあと黒子が名前にキスをしたことになる。
唇に残る感覚が夢の中まで鮮明に伝わったからだ。
夢じゃないと良いなと、思いながら黒子に擦り寄った。
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