■ 思い出すのなら

 (君の笑顔が良かった、なんて)



 家に帰ると、まずローファーを脱ぎ捨てた。
 リビングに入ると、固定電話のランプが点滅している。
 ディスプレイを覗き込んだ。
 無機質なカクカクの文字が、"ルスデン 1ケン"と流れていた。
 名前は再生ボタンを押そうと手を伸ばす。
 カチッと小さな音と共にピーッと電子音が部屋中に響き渡る。
 スピーカーからノイズが聞こえた。

"あ、もしもし。黒子です"

 黒子です、と聞いたとたんに名前は恐怖で飛びのいた。
 どたっ、と床に尻餅をついて固定電話を見上げる。

"ボクのこと、思い出せないのでしょう?"

 心臓を素手で捕まれたように、苦しくなった。
 今日の火神との会話を聞いていたかのような口ぶりの留守録に、名前は冷や汗を流す。

"別に気にしてないですから。幸せになってください。それがボクの願いです"

 ピーッとまた電子音が鳴った。そして"シチガツ xxニチ ルスデン ハ イジョウ デス"と無機質なアナウンスがスピーカーから流れ、沈黙する。

 カタカタと震える足を叱咤し、二階へ逃げ込んだ。
 鍵をかけて、ベットに飛び込む。枕を抱きしめ、脳内再生される声を振り切ろうと目をつむった。



∝∝∝



 名前は顔に汗が伝った感触で目が覚めた。
 いつの間に眠っていたのだろう。
 7月だというのに、窓も開けずに寝ていたと思うと、ブワッと汗が滲む。
 熱さで上がった呼吸の音だけが部屋に響く。
 仰向けになり、再び目をつむる。

『(…制服がシワになっちゃうな)』

 何だか散々である。"黒子"という人物に振り回されるのは。
 留守録も今日の日付で、黒子と名乗っていた。
 ドッと溜まる疲れが蝕んでいくのを感じながら、溜め息を吐く。
 それから一拍おいて、頬に何かが落ちた。名前は目を開く。



「忘れても、」


 ぼんやりとした顔。赤い液体を頭からかぶったように、髪の毛から滴りおちてくる。
 淡い水色の絹のような髪の毛に滲む赤がキラキラと光っていた。

「良いんですよ?」

 間違いない。留守録の彼の声だ。
 ならば彼は"黒子"なんだと、結論付ける。
 金縛りに遭ったように動かない体。
 "黒子"の青白い手が動けない名前の首筋をなぞった。

「痛いんです、苦しいんです…、ボク、…辛いんです」

"味わってみてください、ボクの気持ち。"


 グッと首筋の手に力が入り名前は呼吸不可になる。

「貴女がボクを忘れたのは心が狭心症で、頭が健忘症で、エゴイストだからです」


 その言葉を最後に名前の意識は堕ちた。

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