■ 金木犀と記憶喪失
金木犀の甘い香がする。外に出歩けば名前は必ず言う。
それに応えるように黒子も金木犀に関する詩や本の話しをする。
文学的分野では名前も黒子も人並みより詳しい。
そんな二人から連想させるのは文化部の部活や委員会である。名前は生徒会の会計で帰宅部。黒子は図書委員に所属し、そんな彼はバスケ部で活躍するスポーツマンだったりする。
頭一つ分位の身長差の二人は今をときめく恋人同士。だからか黒子は名前の我が儘や笑顔に弱いのだ。
朝の登校中に最近買った本について熱く語る名前は黒子が話しをすっぽかして、ただ自分の笑顔に魅了されていることなんて知りもしない。
しかしずっと黙っていた黒子に名前は苛立ちを覚えて頬をつねってやった。
「い、いひゃいれす…」
『だってテツヤくん、ずっと上の空なんだもん』
むすっとした顔で言われて黒子は微笑んだ。
「名前ひゃんの顔をすっと、ひてはしは」
『何?何て言った?』
「だはら、名前ひゃんのか、おぉいあたたたただだだだっ!!」
話している途中に更に頬をつねられ黒子は涙目になる。
『なんかテツヤくん男なのに可愛い。むかつくなぁ』
黒子の言い分も聞かずに名前はもう片方の頬も思い切りつねった。
「いたたたただだだっ!」
普段の黒子からは考えられない声が出る。名前はそれを面白がる。
『テツヤくん、変な顔ー!』
下品さがない笑いは名前特有である。黒子は少し歯痒くなって名前の手をやんわり退かした。
「あまり可愛いと言われても嬉しくありません」
いつの間にか止めていた歩みは黒子によってまた歩きだす。
『あー、怒ってる?』
「怒ってません」
『怒ってるでしょー』
歩きながら黒子の周りを器用に歩く名前は無垢な笑みで笑う。
「………」
『そんなテツヤくんが好きなんだけどね』
ビチャ
黒子が溝に片足を突っ込んで止まった。
「そ、そんなこと言ったって、…ゆ、ゆゆゆ許しませんからね!!」
『許してくれないのか。あと溝にはまってるよ』
黒子は耳を赤く染めて溝から片足を抜いてそっぽを向いた。
「…………許しません」
『えぇー…』
そんな時後ろから車の音がして黒子は安全確認のために振り返った。
丁度、名前はバックから熱烈に語っていた本を取り出している。誠凜高校のセーラー服の上から羽織るカーディガンの袖を目一杯に引っ張り手を覆い隠す。
『テツヤくん!見て!この本がね、さっきの「名前さん!!」
言葉を遮られ、先ほど黒子が落ちた溝ギリギリまで突き飛ばされる。そのまま尻餅をつきそうな体制で空中浮遊した。その瞬間、スローモーションで黒子が車に轢かれたのを目の当たりにしてしまった名前は固まる。
ドサリと荷物が落ち、名前も地面に落ちる。
視界に広がる赤はどこまでも滲み、名前は絶叫した。
『い…、いや、いやああああああっ!!』
荷物も握っていた本も放り出しグッタリする黒子に駆け寄り何とか上半身だけ起こす。
ビチャビチャと血が垂れる音がして、手の平が生暖かい感触に包まれた。
『しっかりして!テツヤくん!!』
車から誰かが降りて来る様子もない。ただ割れたフロントガラスから白い腕が見え、そこにも血の海が広がっていた。
『あ…、あうぅ……たすけてぇ……誰かあ…テツヤくんが………テツヤくんが…死んじゃうよぉ!!』
近所の家から知らないおばさんが出て来て驚いた顔でこちらを見ている。
『見てないで……たすけてよぉ!!死んじゃう!お願いだからぁ……!!』
泣き叫ぶ名前は必死に黒子を抱き抱える。徐々に冷たくなる体温に恐怖が溢れた。
おばさんが携帯を片手に青ざめた顔で電話をかける。
『お願い!死なないで!!テツヤくん!いやだよ……』
腰が抜け動けなかった。名前の声が肌寒くなった空に消える。一日の始まりは血濡れていた。
***
黒子は違和感を覚えて目を覚ます。呼吸がうまく出来ない。視線を動かし、首を少々曲げるのが限界だ。
指を無理矢理動かすと何故か肘が痛みだす。声は掠れすぎて出ない。
なにが起こったのだろう。
白い部屋の隅ではカラフルなモノが見えた。床に散らばるそれは小さな鶴の集団。鶴の集団の中心には女の子が何かを呟きながら手元を弄っている。
あれは誰なのだろうか。
『1036羽目…』
手元から赤いモノが落ちる。鶴の集団に紛れ込む赤いモノは折り鶴だった。
女の子を見た瞬間、懐かしいと感じた。激痛が走る中黒子はおもむろに手を伸ばした。
そして掠れた声で言う。
「お…はよう、ござ…いま…す。ど…うか、しまし………た、か?」
女の子は顔を上げて虚ろな目でコチラを見ていた。
窓から入る風は部屋の中の消毒液の匂いを掻き回す。 黒子はここが病院なのだと察した。
『…テツヤくん?』
鶴は風邪に吹かれて飛ばされる。
「あな…たは、…だ、れ…です、か?」
ぐしゃっと女の子の膝で折り鶴が潰れた音がする。
今日もまた、金木犀の匂いがする。
『…テツヤくん。今日も金木犀の良い匂いがするね』
涙を流して言った女の子は笑っていた。
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