■ 37
名前は家を出てすぐさま走った。
黒子が自分の後を追って来る気がしたからだ。
その予想は当たったようで二軒ほど隣にある路地から様子を伺うと黒子が軍服で外に出てキョロキョロとしていた。
名前はふぅ、と一息ついて路地の中へ入って行く。お下がりのショルダーバッグから小銭を出して握り締めた。
掃除をされていない道は薄汚く、所々に酔い潰れた人が寝ている。
向かう先は路地を抜けた大通りの公衆電話。
Act37
煙りを上げて通り過ぎる車の合間を縫うように走り、反対斜線の公衆電話へたどりつく。
受話器を耳に当てるとツー、と電子音が鳴る。小銭をチャリンと入れれば、メモ用紙を見ながらダイアルを回す。
何コールか目で受話器が取られた音がした。
「はい。東町病院、桃井です」
『こんばんは。黒子名前です。紫原さんとお話したいのですが』
「あぁ、むっくん?むっくんなら今朝、退院したよ」
名前は思わず目を見開いた。
『退院!?うそっ!?どこに行ったか分かりますか!?』
「まだ病院の前のベンチに座ってるよ。人を待ってるみたいだけど」
『え…、なんだ。びっくりした…』
桃井がクスクスと可愛らしく笑う。名前には容易に想像できた。
「それとね、この病院は今日で終わってしまうから早めに来てね。私も早く出て行かなきゃだし」
『そうだったんですか?…すみません』
「ううん。いいの。私も潮時だしね」
桃井が嬉しそうに言うものだから名前は結婚でもするのかと思わず聞いた。
桃井はそれに大爆笑してしまう。
「違うよ!帰るの!!久しぶりの里帰り!!40年ぶりだからかな、嬉しいし、楽しみなの」
『40年ぶり…?』
桃井は明らかに20代に見える。大人っぽいからだろうか。ただの名前の偏見だろうか。
「そう。皆、元気に退院してくれたから帰るの」
『そうなんですか』
「むっくん以外に普通の女の子とも話せて良かった…。テツくんによろしく言っておいてね」
『え?テツくん?』
聞き返した途端にガタンッ受話器が音をたてて落ちるような音がした。
そしてツー…と電子音がして女性の音声が入る。
[おかけになった電話は現在、使用されていません。電話番号をお確かめのうえ、おかけ直しください]
『…桃井さん!?』
名前の声が切なく響いた。
***
バス停から降りるとすぐに病院へ走った。
少し肌寒さを覚えたが構わずに走る。
『(征十郎に会ったらどうしよう)』
未だに信じられない双子の兄の話。黒子も名前も互いが夢にまで見た家族の存在意義。
赤司も同じ気持ちだったなんて名前は知らない。
名前と再開したから死んでしまったということも知らない。
そんな名前には変化があった。意思疎通の能力がなかなか使えなくなってしまったのだ。これは最近、…というより昨日気がついたのだ。
黒子に意思疎通の能力が効かなかった。たまに通じるみたいだが効力は確実に失われている。
黒子には、時々聞こえる名前の声を空耳と勘違いしたみたいだった。
『(言えるわけないなぁ)』
道を抜けると紫原のいる病院だ。
そこで名前は絶句した。前に来たときはこんな感じだっただろうか。
病院はまさに廃墟と化していた。
『なにこれ…』
「あー、名前ちん遅い」
横から投げ掛けられた声に名前はハッとする。
『あっくん…。久しぶり』
「久しぶり〜。びっくりした?」
苦笑いしながらニメートルの巨体が歩いて来る。名前は頷くと何があったか尋ねた。
『前はこんなじゃなかった。人がいる雰囲気があった』
「俺がいたからね〜。あ、あと桃ちんも」
『桃井さんは確か帰るって…』
帰るの単語に紫原が反応した。
「帰る…、ねぇ…。そうなんだ」
『あっくん、知らなかったの?』
紫原がボケーっと空を見る。
「うん…。知らなかった」
そう言って病院を出た。名前は紫原に付いていく。
『…あっくんはいつからあの病院に?』
「…二年前かな。黒ちんと喧嘩してすぐだよ」
高い身長の彼が妙にションボリとしているように見えて不思議な気分に浸る。
『テツヤと喧嘩…。何があったの?』
「何も知らないんだね。赤ちんから聞いたかと思ったよ」
赤ちんとは赤司のことだろうか。名前は赤司が好きではない。
『征十郎さんは、私のことをからかうから嫌い』
「例えば?」
何気なく返された質問に名前は声を荒げて言った。
『私のことを双子の妹だなんて言うの!!』
紫原は目を見開いて名前を見る。そして、穏やかな目つきになり名前の頭を撫でた。
名前に合わせた紫原の歩幅は小さい。
「それ、赤ちんが聞いたら悲しむよ?」
『なんで?』
小さなベンチに誘導され座った。
「だって本当のことだし。いつだったかに聞いた。赤ちんの妹の話」
名前はスカートを握り締めて何故か黒子の顔を思い浮かべた。
『…うそ』
「ん…。まぁ俺の間違いの可能性もあるし。黒ちんもムゴいよねぇ…」
『…何が?』
「実は、赤ちんの妹の名前は"名前"って名前なんだよ。キセキの中で見たことあるのは黒ちんだけ」
紫原はふぅ、と溜め息をついた。ポケットからまいう棒を取り出し封を開ける。そしてサクサクと食べはじめた。
『…でも、私…』
前はただの奴隷だったの、なんて言えなかった。しかし紫原は、そんな名前に気にしてないといわんばかりに豪快にまいう棒をかじった。
「ねぇ、俺達キセキの解散した時の話、聞く?」
『え!?』
名前は驚いた顔で紫原を見る。
「黒ちんからも聞いてないんでしょ?それに俺がただ話したいだけなのかもしれないけど、聞いてくれる?」
彼は本当に契約者だろうか。そう思ってしまった。
『聞かせて…』
脳裏に浮かぶ黒子の顔には似合わない眼帯。
誰しもが教えてはくれなかった過去。
「一つだけ言っておくけど、後悔はしないでね。それと、名前ちんの願いごとを今一度考え直して。黄瀬ちんから聞いたけど、黒ちんの願いを叶えてはダメ。黒ちんは底知れずの闇だよ」
『え…』
[
prev /
next ]