■ 26

 時計は5時をまわり名前は帰って来ない。黒子の不安は募るばかりだ。玄関をウロウロしながら帰りを待つ。
 先程のドロドロした感情は消えたが変わりに心許ない気持ちだった。
 もし帰ってこなかったら?というような考えがグルグルと頭で輪廻する。黒子にとっての心許せる小さな家族。
 壁にトンと寄り掛かりズルズルとしゃがみ膝を抱えた。一人で居ると小さな頃を思い出す。

「名前さん…」












Act26













 嫌な臭いがした。肌寒い。どれだけ母の名前を呼んでも返答はない。
 それを死と理解できる程の知識は黒子にはなかった。日に日に姿が変わり果てる母に少しずつ恐怖を抱き布張りの家を出た。帰れば母とは思えない母が横たわったまま沈黙している。
 そんな日々が皹割れして黒子はスラム街を走り抜けた。一人は怖かった。ずっと、ずっと走っていたせいで足は血まみれで、いつしか空腹で倒れていた自分自身を覚えている。
 だいたい5歳くらいの時の話しだ。












***












「(嫌な思い出です)」

 冬が来たからもう外は暗い。一人が嫌いなのはあのときからだ。ずっと家族が欲しかった。キセキと居た楽しかった日々が懐かしい。

「(でも、もう彼らは違う)」

 黒子はそのまま待ち続けた。












***













「そうなんだ〜」

 今までのことを全て話した。紫原はお菓子をかじりながら頷く。

「あっくんは自分のこと話してくれないの?」

「うん。話さない」

 ベットから出た紫原は裸足でペタペタと歩き引き出しから靴下を取り出しはく。

「どうして?」

「だって名前ちんは元奴隷だったんでしょ?」

 奴隷だったことに問題があるのだろうか。名前には分からなかった。

「別に奴隷だった時のことあまり覚えてないし…。毎日を生きるのに精一杯だったから」

 毎日を生きるのに精一杯なのはスラム街でも同じだが、奴隷も主人の気分次第で殺される。まさしく五十歩百歩である。

「………あまり言いたくないんだけどね、奴隷制度の発案者は俺の叔父さんなんだ」

 どもった割には紫原があまりにもしれっと言うので名前は驚いた。

「…あっくん」

「恨む?」

「恨まないよ。あっくんは悪くない」

「そう。よかった」

 着替えを始めた紫原に背を向けた名前はバックから手帳を取り出しメモを始める。

「何書いてるんスか?」

 黄瀬が覗き込む。
名前はペンを握りしめながら言った。

「……私さ、緑間さんを殺したときね、」

 紫原と緑間の視線が背中に突き刺さる。

「なんてことしちゃったんだろう…って思ったの。人の時を止めることがこんなにも重いなんて知らなかった」

 ハァとため息がして緑間が何を今更と呟く。黄瀬は頷き名前のメモを眺めた。

「そんなの俺たちも知ってるっス…」

「………私、契約者を全員殺して何がしたいのか分からなくなってきたの」

 手元が震えてペンはパタリと倒れ目から涙が溢れる。

「皆には感謝してる。けど、契約者のゲームに勝ったら何を願えばいいの?テツヤは喜ぶの?」

 紫原が温かそうな服を着て一冊の本が差し出された。

「本、好きでしょ?あげる。名前ちんは条件を満たしてる。だからこの本をあげる」

「え…?条件?」

 受け取ってしまった本には名前が書かれていた。
 緑間がすぐ反応する。

「その本はあ」

紫原は声がする方に振り返り、しっーと言った。

「あっくんの?」

 紫原が向き直りそうだよと頷く。

「今日はもう帰った方が良いよ。黒ちんが心配してるよ…。それからさ、絶対軍には入らないでね」

 飴玉を投げられ名前はパッと空中で受け取る。

「…どうして?」

「遠回しに黒子っちに心配かけるなって言ってるんスよ」

 名前は心の中を見透かされて、唇を噛んだ。どうしても涙が止まらない。俯いて頷いた。

「名前ちん、また明日おいでよ。やっぱり協力するなら俺のこと話すよ」

 紫原の言葉を最後に病院を後にした。












***












 ガチャンと鍵が回り、ドアが開く音がした。
 黒子は目を開け、いつの間にか寝てしまったようで、床に転がっていた自らの身を起こした。視界にふわふわのスカートが揺れハッとする。

「名前さん…!!」

 バッと立ち上がり名前に抱き着く。足が痺れてフラリとよろけ倒れる。

「わっ」

 ドカンと尻餅をついた名前が痛いと涙目になるが黒子は更に名前をキツく抱きしめた。

「どこ行ってたんですか!!もう暗いのに…!!!!」

 情けない顔は見せられない。しかし、名前の肩に顔を押し付け泣いてしまった。

「…テツヤ、ごめんなさいいいっ」

 途端に名前も泣き出す。すでに泣き腫らした目元はヒリヒリと痛んだ。

「もう帰ってこないかと思いました」

「ごめんなさい、ごめんなさい…、私、軍には入らいよ…ごめんなさい」

 何度も、謝罪を繰り返す名前は狂ったように泣き続けた。

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