■ 01
その国は軍事国家。
その国を支配するのは王族。
その国を支えるのは哀れな奴隷。
その国を守るのは軍人。
その国を脅かすのは契約者。
Act01
私は懸命に走った。後ろからは数人の男の怒声と足音。
それなりに良い身分の男共に私は追われている。しかし、路地に入っても隠れようとしても足首に纏わり付く足枷と足枷からのびる長い鎖がガシャガシャと音をたて男共に居場所を教えてしまう。
入り組んだ道を目茶苦茶に進む。右に曲がったり左に曲がったり、そんなことを繰り返していた。
裸足の足が傷だらけになり、力が入らなくてガタガタと震える。それも構わずに走った。大分、最初に比べてスピードダウンした走りに後ろの存在が迫って来る恐怖が更にスピードダウンに促す。
右の角を曲がった。
「あ…、そ、そんな……行き止まり」
数十秒で追っ手が追い付く。それでも逃げ道を探す私は視線をさ迷わせ、行き止まりの壁際をフラフラと歩く。
荒くなった息が苦しくて目の前が霞み、前へ倒れた。嗚呼、私の逃走劇はこれで終わってしまうのだろうか。
スローモーションで倒れる私の背後の下品な笑い声が聞こえ敗北感と悔しさで涙が浮かぶ。ゆっくりと目を閉じ、崩れ落ちる自分の体に風のような温かな何かがふわりと包み込む。
「まだ終わっていませんよ。諦めないでください」
突如聞こえた声に私は閉じかけた目を見開いた。
ドサリと温かな物に抱き留められ私は顔を見上げる。逆光でよく見えないが美しい空色の髪がキラキラと光り、口元が優しく弧を描いた男性。それはまるで救いの神のようだった。
「…だ、れ……?」
「貴女の味方です」
そっと微笑むと彼は私を抱き留めながら男共に言った。罵声が聞こえるが、冷静に受け答えする彼。その声は優しくも力強く、相手の言葉など微塵も入り込ませない不思議な声音であった。
少し話しただけだというのに、男共は罵声から猫なで声に変わる。
「…わかれば良いんですよ」
彼の一言で男共は去って行った。今まで、顔を彼の腕に埋めていた名前にはどんな会話が交わされたか、全く理解できなかった。
「…何が、あった…の?」
相変わらず息苦しくてつっかえならが聞いてみる。霞む世界が名前の視界を奪っていく。だんだん、重たくなる瞼を何度も上下させた。
「自分の権力を使っただけです」
「けん、りょく?」
もう、考える気力も体力もない。途切れそうな名前の質問に答えることなく、彼は小さなあやすような声で呟いた。
「ふふ、疲れたでしょう。大丈夫です。貴女はもう、奴隷ではありません」
「どれ、い?」
「よければボクの家で手当てをしてあげます。怪しい者ではないので安心してくださいね」
「………………」
私の意識はそこで飛んだ。暖かい感覚に身を任せる。
***
痛みに目を覚ませば知らない天井。暖かな日差しはもう朝の日差し。
重い体を起き上がらせ、窓の外を見た。そこには知らない風景。
海が見え、市場で準備をする漁師や沢山の果物や野菜を抱えた女の人。
「わぁ…」
思わず窓に張り付くように外を眺めた。
「海だ…、綺麗」
海や空、窓から見える風景を一通り見たあと、部屋を見渡す。
寝室なのか小さなテーブルと小さな電球、沢山の本とソファがあるだけだった。身分は中の下の辺りくらいだと思った。ハンガーに掛かる真っ白なワイシャツは大きさからして男性のものだ。
ソファに掛かる布の膨らみを見る。水色のモサモサが布からはみ出、それが頭だと理解した。
そっとベットから足を出し、床に両足を並べ布団を退かす。立ち上がろうと、ぐっと両足に体重を掛けた途端に足の裏から激痛が走った。小さな擦り傷たちが悲鳴を上げた。
「うっ!いったあ、んああああっ!!」
自分の体重を支えるのを失敗した足はカクンと力が抜け、前のめりに倒れてベット横の簡易テーブルに顔面から着地する。
ガンッと鈍く大きな音をたてて、テーブルの上の物がぐらぐらと揺れた。
「うっ!」
ズルリと床に落ちて、名前は顔面を押さえながら床に這いつくばると、ソファの上が騒がしく動く。バサリとソファから男性が起き上がる。その、顔は驚きで満ち、大きなスカイブルーの目を見開いて部屋の中をキョロキョロと見回した。
「な、何事!?何の音ですか!?」
床に鼻血を垂らしながら名前は顔を抑え、もがいた。うめき声が低く部屋に響く。
「のおおぉぉ…」
名前の声を聞き付けた水色の髪の男が凄い寝癖で近づいてくる。名前がなんとか起き上がると、重力にしたがって赤い液体が鼻から零れ落ちた。
「だ、大丈夫ですか!?って鼻血が…」
***
「足の傷が痛くてバランスを崩したんですか…」
それは大変でしたね、と言って足に包帯を巻いてくれる彼。多分、名前を助けてくれたのは彼だろうなと思いながら黙って頷く。
その手つきは優しく手馴れており、名前を安心させる何かがにじみ出ていた。
「その、…うるさくしてごめんなさい」
「いえ、お構いなく」
誰にでも同じ口調なのか、彼が敬語以外を話す姿など想像できなかった。もし、想像できたとしても、それは彼ではないような気がする。まるでどこかで会った事があるのではないかと思うくらいに、それは違和感に満ちる想像だった。
そうしているうちに疑問が湧き出す。恐る恐る聞いてみる。
「あの、…私どのくらい、…寝てたんですか?」
「昨日の昼頃に貴女を抱えて此処に戻ってきたので、大体…一晩と半日くらいでしょうか」
「そんなに…」
我ながら驚いた。彼はそんな名前にかまうことなく、呟く。
「それにしても痛々しい怪我ですね…」
包帯を巻き終えた彼は眉をハの字にして私の足を見る。なぜ、そんな表情をするのか分からなかった。これが当たり前だと認識していた名前には不可解極まりなかった。
「それくらいなら、日常茶飯事というか…。さっきもたまたまバランスを崩しただけで…」
「……辛くないんですか?」
彼が立ち上がり、ベットに足をブラブラさせて座る名前を見下ろす。何故、そんなことを聞くのか?とはいえなかった。
彼の深刻そうな顔を、無表情の中に垣間見たからだ。
「………別に。ただ、辛いってどんなものか分からない」
「そうですか」
彼の顔を見た。水色の瞳は私を捕らえ目を細める。そこで初めて気がつく。左目は白い清潔な眼帯が覆い隠していた。
「あ…」
「…?どうかしましたか?」
「左目、どうしたんですか?」
彼はキョトンとしてから笑い、私の頭に手を置き言う。まるで、幼い子供をあやすように撫でた。
「小さい頃に少し事故で」
「事故?」
「はい。それより、貴女の名前を教えてください」
突然話が逸れて私は戸惑ったあと冷静になり、答えた。
「ありません。とっくの昔に忘れました。あったかも怪しいくらいです。…だから私に名前はありません」
「……それは、………悲しいです」
彼は悲しそうな顔をする。奴隷だった名前はそんな顔を見たことが無い。向けられる顔は奴隷を見る顔。だから少し戸惑った。それでも、はっきりとした声で言った。
「好きに呼んでもらって構いません」
「そうですか。なら貴女に新しい名前をあげましょう」
彼の意外な答えに名前の目はこれでもかというほどに開かれた。
「え…」
「嫌ですか?」
更に悲しそうな顔をする彼は名前に合わせて体を屈ませる。
「いえ…、そう言ってくれる人が居なくて…。どちらかと言えば、嬉しい…」
「よかった。なら貴女は今日からボクの家族。だから苗字は"黒子"。そして名前は名前です」
「黒子…名前?」
「はい。ボクの名前は黒子テツヤです。ボクの家族になるなら苗字は必然的に黒子になりますから」
自信満々に言った彼は嬉しそうに笑った。
「黒子さん…」
「あ、ダメです。家族は呼び捨てで名前で呼ぶこと」
「でも私、奴隷だし…」
「奴隷?名前はもう奴隷ではないでしょう?」
彼が指差したのは私の足。よく見たらいつも私を縛っていた足枷が無かった。唯一、足枷のあとだけが残っていた。
「足枷が…ない」
「ね?だから奴隷ではないんです!はやくテツヤって呼んでください!!」
キラキラと輝く彼の顔は寝癖を揺らしてしっかり私を見る。
「て、テツヤ…」
「はい!名前さん!!」
自分はさん付けなのかとツッコミたかったが、名付け親に口答えはできない。
一人舞い上がる黒子は上機嫌で、ベットの横に置いてあった紙袋を取り出して、また私に向き合う。
「名前さん。流行りの服はお好きですか?」
「は、流行り?」
「最近はスカートがフワフワのメイドのようなワンピースにエプロンと可愛らしいフリフリの三角巾がブームらしいんです!!」
「私、そんな服着たことない」
「え?なら、尚更です!!さぁ、着替えてください!ボクは下で戸籍の書き換えの準備をしてきますから、着替え終わったら一階に来て下さいね」
「あ、あの…」
名前が引き止める間もなく黒子は出ていってしまった。一人残された名前は紙袋の中を見て呟く。一気に緊張が解けた。そして一つの難題に頭を抱えた。
「私、これの着方わかんないんだけど…」
***
とりあえず着てみたがエプロンとやらと三角巾とやらの付け方が分からず一階に聞きに行ってみた。
黒子は開口一番に『よく似合ってます』と言い、エプロンと三角巾を付けてくれた。
(なに?この蝶々みたいな結び方。どうやったら結べるの?)
絡結びしか知らない私は背後に付いているエプロンの紐を眺めた。
「女の子はこうやって流行りの服を着るのが大好きらしいです。名前さんもすぐに慣れますよ」
「服…」
「あ、靴もありますからね。あと5分程で出かけますから」
そう言って黒子は書類等をバックに詰めて身支度を整えはじめる。いつの間にか寝癖は直り、半袖で水色のカッターシャツに黒の細身のネクタイを締め、ジーパンというラフな格好だった。
名前はこれが夢なんじゃないかと疑いたくなる。昨日の名前にはこんな運命がくるとは全く思っていなかったのだ。
「…よし、行きましょう。名前さん。役所が開くまで少し時間が掛かるので朝食は外ですませましょうか」
擦り傷が痛む足を我慢して歩き、玄関で手招きをする黒子の元へ駆け寄った。
「これ靴?」
「はい、これが靴です。名前さんはこれ。ローファーでしたっけ?どれが良いのか分からなくて店員さんに聞いたんですよね。これ」
「ローファーって確か学生の靴じゃないですか?」
学生でも何でもない名前の見解に黒子は目をぱちくりさせた。
「…ボクとしたことが」
黒子と手を繋ぎ外へ出た。
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