「……ねぇ、なまえ?」



これは、なんのつもりかしら?いつもと変わらないトーンの声から、困惑が見え隠れしていて、わたしの良心を苛む。
けれど、ここまでして今更退くわけにはいかないのです。壁際に追い詰めた玲央ちゃんを逃がさないように、すとんと座らせて、顔の横に静かに手を置いた。こうしてしまえば、わたしに甘い玲央ちゃんは逃げ出せないことを知っている。


「れ、玲央ちゃんが、悪いんだもん」

「私、なまえに何かした?」


きゅっ、と形の良い眉を悲しそうに下げて、玲央ちゃんは「もしなにか嫌なことをしちゃったなら、謝るわ」とわたしの頭を静かになでた。玲央ちゃんの手つきは、慈しむって表現がぴったりなくらいに優しくて、けれどそれがわたしにはじれったい。
違う、と玲央ちゃんの言葉を否定する代わりに 、ぶんぶんと頭を横に振った。違う、違うの。玲央ちゃん、あのね、


「玲央ちゃんが、」

「うん」

「玲央ちゃんが、や、優しすぎるから」

「……え?」


きょとんと瞬きする玲央ちゃんを無視して、わたしは勢いづいた言葉をそのまま吐きだしていく。


「玲央ちゃんが優しいのは知ってるし、わたしにもすごく優しいけど、でもみんなにも優しいもん」

「え、と…なまえ?」

「優しい玲央ちゃんが好きだけど、す、すき、だけどっ」


うわ、なにこれ、どうしようとまんない。
顔は勝手に火照り始めるし、口から言葉は止まらないし、玲央ちゃんの顔の横についたままの手はめちゃくちゃ震えてるし、どう考えても、わたし今すごいパニック起こしてる。


「わ、わたしが、一番に、なりたいの!」


玲央ちゃんは頼りになるから、ついついみんな玲央ちゃんに頼りがちで、最初は「しょうがないわね、まったく」なんてため息を吐くけど玲央ちゃんが誰かを見捨てたなんて見たことがない。だからみんなが玲央ちゃんを好きでいるし、玲央ちゃんもみんなを好きでいるのだと思う。わたしも、その中の一人なんだ。
見た目も中身も平凡でありふれたわたしが、玲央ちゃんの一番になりたいなんて、おかしいよね。でも好きなんだもん。
顔だけじゃなくて、目頭まで熱くなってきて、あ、これ泣くなってどこか他人事みたいに思ってたら、本当に涙が出てきて、それを見た玲央ちゃんが目に見えて慌てだした。


「ちょ、ちょっとなまえ、ほら、泣かないの」

「ひぅ、れ、れおちゃ、ごめ」

「ああもう、可愛い顔が台無しじゃない」


指先でそっと涙を拭ってくれた玲央ちゃんは、そのままわたしの頭を引き寄せて、優しくなでてくれた。泣いてるところを見えないように、ちょうどわたしの額が肩に押しつけられて、抱きしめられているような姿勢に、からだが硬直してしまう。ふざけて「ハグしよー!」って言って抱きつくのとは、訳が違う。それでもこんなに意識しているのはわたしだけなんだろーなーとか考えてたら急激に恥ずかしさが増した。今なら、恥ずかしさで死ねるとさえ思う。


「――ねぇ、なまえ」

「…………なぁに玲央ちゃん」


ようやく涙も嗚咽も引っこんだところで、依然としてわたしを抱きしめてくれている玲央ちゃんが、突然わたしを呼んだ。
「そのままで良いわよ」って言ってくれたけど、さすがにこのままの体勢でいるとわたしが恥ずか死んでしまうので、丁重に辞退してからだを起こした。そして一瞬で後悔した。
――とてつもなく、近い。しかもわたしが膝立ちしているせいでいつもは見上げている玲央ちゃんの端正なお顔が目線よりも少し下にあるのだ。いつもと明らかに違う、見上げなければいけないから玲央ちゃんは必然的に上目づかいになっていて、胸がきゅんとした。


(…じゃなくて、離れろわたし!)


いつまで玲央ちゃんに乗っかってるつもりなんだ、そうだよ退けば全部解決するじゃんわたしのバカ!自問自答もそこそこに、「玲央ちゃんごめんね、今退くね」って言いながら、立ち上がろうと膝を浮かせ――、


「れ、れお、ちゃん?」

「そのままで良いって、言わなかったかしら?」


「で、でも、重いし」

「良いからそのままでいなさい」

「はい」


られませんでした。わたしの胴体を玲央ちゃんの長くて意外と逞しい腕ががっちりホールドしていたのである。しかも気のせいじゃなければ、その力は逃げられないぎりぎりでうまいこと調節されているのか、身動きは取れないけど全然苦しくない。その気遣いと余裕が逆に怖いよ玲央ちゃん。


「私の勘違いじゃなければだけど、『一番になりたい』っていうのは、恋人になりたいってことで良いの?」

「えっと、あのね、玲央ちゃん、その、あれは」

「言い訳は認めないわよ」

「はい、あの……おっしゃる、とおり、です」


まったくはぐらかせる気がしない。さすがというかなんというか、気圧されたわたしにそんな、逆らう勇気なんてあるわけがない。いや、もともとこの状況を作った元凶はまぎれもなくわたしだけれど。
羞恥とか恐怖とかいろんなものがないまぜになって、頭の中が許容範囲を軽く超えてしまった頃になって、くすくす、と笑う声が漏れた。


「嬉しいわ、ありがとう」

「え、や、あの、……え?」

「私も、なまえが好きよ」


にっこりと微笑む玲央ちゃんは、「私の一番はずっと前からなまえなの」とないしょ話をするみたいに囁いて、わたしの肩に手をかけた。……ん?


「あの、玲央ちゃん?」

「なにかしら?」

「あの、ち、近くない…?」

「あら、いいじゃない。恋人同士なんだから」


ぐぐぐ、と少しずつすこーしずつ距離を詰めてくる玲央ちゃんに、恥ずかしさから腕を突っぱねて抵抗しているはずなのに、なぜか距離はどんどん近くなっている。ていうか、え、玲央ちゃん力強い。そうだ忘れかけてたけど玲央ちゃん男バスのレギュラーだった。


想像の中の君だけじゃ、もう


「や、あの、れお、ちゃ…」

「好きよ、なまえ」


囁くだけで、顔を真っ赤にして恥じらうなまえは本当に可愛らしい。抵抗にもなっていない腕をそっと下ろして、少しでも隙間を埋めてしまいたくて距離を詰める。


「なまえは、知らなかったのかしら?」


「何を?」と言いたげな瞳に薄らと微笑んで、無防備にさらけ出されていた白い首に、正面から口づけた。
こくり、と緊張に震えた喉すらいとおしい。

偶像のなまえだけじゃ足りないわ、本物のアナタを全部、私に頂戴。


「私、こう見えて欲ばりなのよ」


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