「死んでもいい」とこぼしたのは、本当に無意識だった。それが尚のこと性質の悪い行為だと、自覚はしているけれど。しかしそう思ってしまったのは本心なのだから仕方のないことだ、とわたしは悪びれる事なく夜道を闊歩する。
しかし隣を歩く長身の彼は、その整った顔を惜し気もなくしかめてわたしを見下ろした。「馬鹿を言うな」と低い声が叱咤する。それすら心地好いと感じられるわたしは、きっと相当に重症だ。
「だって、今わりと人生で一番幸せな瞬間だと思っちゃったもんだからさぁ」
「それと今の自殺願望にしか聞こえない発言に、なんの関連があるのだよ」
「厳密に言うと、死にたいんじゃないよ。死んでもいいなって思っただけ」
だって、一等幸せな瞬間にその命を終わらせるのだ。それが幸福意外になんと名付けられようか。
――なんて、そんなものはこじつけでしかない。ただただ今の瞬間を「幸せ」だと感じたら、言葉が口から勝手に出てきたのだ。きっと友人が豆知識だと言って聞かせてくれた二葉亭四迷の逸話のせいだ。読書家である緑間くんがそれに思い当たらなかったことを少し残念に思う反面で、ほっと胸をなでおろした。わたしはまだ、このぬるま湯のような関係を手放すつもりはないのだから。
「狭量だな」
「そういう緑間くんは辛辣だね」
「今が一番に幸せなどと馬鹿げた事を言うからだ。視野が狭い、と自分から暴露しているようなものなのだよ」
「あはは、反論できないなぁ」
「だいたい、死んでもいいなどと思うこと自体も馬鹿げている。上を見てみろ」
「上?」
「――今日の月は、特別綺麗なのだよ」
「見逃して死ぬなんて、惜しいだろう」と言う彼の言葉に、脳がついていけない。
ねえ、その言葉に意味を求めても許されるかなぁ。見上げた横顔は相も変わらず凛としていて綺麗だけれど、そこから答えを読み取ることは残念ながら不可能だった。
「……綺麗だ」
「そう思うのなら、死ぬなどと愚かしい事は、二度と言うな」
「緑間くん、」
「帰るぞ」
「ねぇ、緑間くん」
なら、わたしが死んでも良いと思わないように、綺麗な月を見せ続けてよ。きみと見る月は、特別に美しいから。