ちょっと乱雑な足取りで、廊下を走る。幸い放課後で人もいないから、見つかることもないし走るわたしを見つけて注意する先生もいない。とても好都合だと思った。まさか放課後に先生に用事を言いつけられるなんて思わなかった。練習時間が減ってしまうじゃないか。
右腕でヴァイオリンのケースを抱えて、向かう場所はひとつ。音楽室だ。廊下の突き当たりに位置するそこを目指していくと、微かに響く音が鼓膜を震わせた。防音対策の甘い秀徳の音楽室、でも、ピアノの音を聴いたのは、初めてだった。


「……誰?」


近づくにつれて少しづつ大きくなっていく音色は、とても澄んでいて、迷いがない。すごくすごく、綺麗な音だ。
荒れた呼吸を整えて、静かに扉を開く。慎重に手をかけたつもりでも、古びたそれはかたん、と音をたててしまったけれど、ピアノの音にかき消されて向こうにまでは届かなかったようだった。
夕日の差し込んだそこは橙色に染められていて、いつも使っているはずの場所なのに不思議と幻想的に映った。ピアノのある場所へ視線を移すと、同じクラスの緑間くんが座っていた。
身長の高い緑間くんは、ピアノが低いのかいつもピンと伸ばしている背筋をほんの少しだけ丸めていたけれど、そんなことはハンデでもなんでもないようで、その指は淀みなく鍵盤を叩く。もともと美人という表現がぴったりな整った顔だちをしている緑間くんだけれど、その横顔は普段目にする時よりもさらに綺麗で、思わず見惚れてしまうくらいだった。
しばらくぼんやりとピアノを観賞していると、不意に音が途切れた。どうしたのかと思って緑間くんを見ると、真っ赤な顔でこちらを凝視していた。夕日に照らされている分を考えても、彼の顔はやっぱり赤くて、どうしたのかと首を傾げた。


「い、いつから、見ていた…?」

「え?あー、5分くらい前から?」

「何故、声をかけなかった」

「綺麗だったから」

「は、」

「モーツァルトだよね、わたしもその曲すきなんだ」


まさか「あなたに見とれてました」なんて言えるはずもなく、まあモーツァルトが好きっていうのは本当だし、聴き惚れていたのだと納得してくれたのだろう。そのままピアノの鍵盤にカバーをかけているところをみると、きっともう帰るのだろう。もう少し聴いていたかったな、残念に思ったけれど、まあ仕方がない。
普段はバスケ部で練習している彼の趣味がピアノだなんてちょっと意外だった。
そういえば、緑間くんの指にいつも巻いているぐるぐるがない。アレがない緑間くんにちょっとした違和感を覚えてしまう。


「緑間くん、あの指のぐるぐる巻いてるやつ、今日はしてないの?」

「ぐるぐる?……ああ、テーピングのことか」

「ていうかあれなんで巻いてるの?」

「オレの爪はバスケでシュートを撃つ際に最も重要なのだよ。普段テーピングしているのは保護のためだ」

「……徹底してるね」

「オレは人事を尽くしているだけだ」


「人事を尽くして天命を待つ」というあれだろうか。天才だなんだともてはやされている彼がそんな事をしていたのは少し意外だった。
バスケに限ったことじゃない。「才能」の有無で左右される分野は少なくない。スポーツ、芸術、そして、音楽も。
光のあたる場所で輝き続ける人の影で、才能というどうしようもない壁に潰された人間は、いったいどれくらいいるんだろう。考えたくもない。
わたしは、どちらかというと影にあたる存在だと自負している。だからといって、そのまま消えるつもりはないけれど。「下手の横好き」上等じゃないか。才能には恵まれなかったけれど、その分は努力でカバーしてみせる。


「みょうじは、」

「ああ、わたしいつも放課後ここで練習してるんだ」

「ヴァイオリンか」


ケースを開いて見せると、緑間くんはそれに興味を示したようで、わたしとヴァイオリンを見比べている。人に聴かせるのって緊張するから、あんまりやりたくないんだけどなぁ。
やんわりと遠まわしにそう伝えると、「オレのピアノを盗み聞きしておいてそれはまかり通らない」と言われた。まぁ、正論ですよね。


「……下手でも、笑わないでね」


ヴァイオリンを構えて、小さく息を吐く。ああもう、こんなに緊張するのはコンクールくらいじゃないか。逸らされることのない視線に、恥ずかしさからじわじわと熱が生まれる。半ば無理やりに熱を振り切って、わたしは音を生み出す事に専念した。

モーツァルトの、「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」。…ピアノがないのは寂しいけど、これが一番好きだし、得意だからしかたない。
この辺で終わりにしよう。数分ほど弾いて、そろそろいいかな、と思った矢先、わたしのヴァイオリンに合わせるように、ピアノが鳴った。緑間くんがピアノの前に座っている。……やっぱ知ってたんだ。だよねー、モーツァルトだもんね。曲は違うけど、さっき弾いてたもんね。
お手本のようなピアノは、わたしにうまく合わせてくれているのか、 すごく弾きやすい。どれくらい弾きやすいかっていうと、今まで感じたことがないくらい、音が気持ちよく響くくらい。
気づいたら1曲丸々弾き終わっていて、わたしは緑間くんに声をかけられて、ようやくぼんやりした意識から抜け出せた。


「す、すっごいね!緑間くんピアノも上手なんだねわたしこんな気持ちよく弾いたの初めてだよ!」

「オレは人事を尽くしているから当然なのだよ。…みょうじの演奏も、まあ、……」

「え、まあ、何」

「わ、悪くなかった、のだよ」

「それどっち?」


興奮してがばっと緑間くんの手を取ると、なんとも微妙な感想をもらって、それどっちなの良かったの悪かったの?と顔を覗き込むと、いつもの仏頂面とか無愛想とか、表情の堅さに定評のある緑間くんの美しいお顔がちょっとだけ、ほんのすこーしだけ、緩んでいた。どうやら、悪くはなかったらしい。
今日はもう帰るのだという緑間くんに「引きとめてごめんね」といって送り出すと、軽く手を振り返してくれた。おお、なんか貴重だ!


「そういえば、あのぐるぐる巻き直さなくてよかったのかなぁ」


音楽室を出るまで、緑間くんはあのぐるぐる、テーピングを巻き直すことはなかった。たぶんピアノを弾くために外したんだろう、家に帰ってから巻き直すのかな。
さっきは興奮しててなんとも思ってなかったけど、テーピングの巻かれてない、そのままの緑間くんの指に触れたことも、もしかしたらすっごく貴重な体験かもしれない。
…ていうか思いっきり握ってしまったわけだけど、まさかあれっくらいで爪が痛んだりはしない、よね?
……なんか怒られたら怖いから、お詫びに明日はネイルケアのオイルでも渡そう。あ、なんか明日が楽しみになってきたかも。



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