「一度、食事でも」って誘われた時に、なにも疑わなかったわけじゃない。モデルを始めた頃よりも格段に広まった知名度も、この容姿も、人を惹きつけるものだということは、自慢でもなんでもなく理解していたことだ。
ホテルのキーをさりげなくチラつかされた時は、笑顔でさらりと受け流した。相手の矜持を踏みにじることなく、自然に。

簡単に言えば、そう。その誘いを上手く断ることができたと思った時点で、油断していたのだ。
ホテルの入り口、別れの挨拶を切り出そうとした瞬間に相手からの抱擁と、響くシャッターの音。ヤバい、と彼が直感するには少しばかり遅すぎた。仕組まれていたと気が付いたのは、抱きついた彼女が驚くでもなくその口元が弧を描いていたからだ。


「――ねぇ、聞いた?」

「あー、あれでしょ?黄瀬涼太のスキャンダル!」


すれ違いざまに聞いた名前に、なまえはつい振りかえってしまう。黄瀬涼太。それは今や大人気のモデルであり、彼女の恋人の名前だ。
スキャンダル、おおよそ良い話とは結びつきそうもない言葉に、彼女は騒ぐ心の内を抑えるように鞄を持つ手に力を込めた。
すぐ近くのコンビニに入って、雑誌コーナーへと進む。いけないと思いつつも並べられた「女性週刊誌」を手にとった。その表紙には「黄瀬涼太、ホテルで密会」なんて安っぽいキャッチコピーが踊っていた。

雑誌を購入して、ページを開く。すこしピンボケした写真だったけれど、面識のある人間なら、そこに映っているのが黄瀬だと断言できるくらいにはしっかりと映っている。相手の女性は、最近CMで共演して話題になった若手女優だ。ピントの合っていない写真でもわかる美貌に、「住んでいる世界が違う」という言葉を思い知らされた。載っている内容を詳しく確認する勇気はなかった。そのまま雑誌を閉じて、不安を振りはらうように深く息を吸って、吐く。


「……やっぱり、黄瀬くんにはこういう人が似合うよね」


自分とは違う、華やかな世界。安っぽいドラマみたいな言葉が浮かんでくる。自分一人で考えても、どうしようもないことは理解しているのに、嫌な想像や思考が頭を離れなくて、心細さばかりが募ってしまう。


「黄瀬くん……」


小さくなまえが呟くのと同時に、彼女の携帯が着信音を鳴らす。不意のことに驚いたものの、覗き込んだ画面には『黄瀬涼太』の文字が表示されていた。


「…も、もしもし?」

「なまえっち!今って家っスか!?」

「えっ、あ、そう、だけど」

「今から行くから待ってて!」


返事をするよりも先に通話を切られて、受話器からはツーツーと無機質な音だけが流れる。なにかを慌てている様子の黄瀬の態度に、なんとなく、週刊誌の記事に関する事のような気がして、なまえは咄嗟にそれを隠した。記事を見たことを、知られたくなかった。


「なまえっち!」


程なくしてやってきた黄瀬を部屋に招き入れると、ドアを閉めるか閉めないかのうちに、黄瀬の腕が背中に回る。抱きしめる、というよりも抱きつかれている感覚に、なまえはほんの少し、心が落ち着くのを感じていた。
どうしてこんな風にきつく抱きつくのか、なんとなく見当は付いている。週刊誌とはいえ、あれだけ派手に騒がれていたのだから、誰の耳に入ってもおかしくない。きっと黄瀬は自分が記事を見たのではないかと危惧しているのだろう。なまえの予測はすぐに黄瀬の口から正解だと示された。


「その、なまえっち。週刊誌とかって読んだ?」

「…ごめんね、読んじゃった」

「なんでなまえっちが謝るんスか!謝るのはオレの方。不安にさせたよね、ごめん」


「でも、あれは誤解なんス!」と、なまえに口をはさませる隙もなく捲し立てる黄瀬に面食らったものの、なんとか頷いた彼女に、黄瀬は言葉を重ねていく。焦りを滲ませて、それでも慎重に言葉を選んでいく。


「あれは、相手の作戦ていうか、とにかく『仕込み』だったんスよ!」

「…し、仕込み……?」


要約すると、黄瀬に気があった相手がスキャンダルを故意に起こして関係を迫ろうとしていた。そういうことだった。
結局は事務所同士の事実のすり合わせの結果「転んだところを偶然に写真に撮られただけで、交際の事実はない」ということになったのだが、発行された雑誌自体は回収が難しかったため、そのままになってしまったのだとか。
黄瀬のたどたどしい説明を飲みこんで、なまえは自分の不安が単なる杞憂でしかなかった事をようやく理解して、安堵にほっと息を吐く。

(――でも、)

それでも、彼女は思うのだ。自分がこの場所に彼を縛り付けているんじゃないかと。
本体ならそれはとんでもない勘違いだ。けれど、束縛を嫌う黄瀬が血相を変えて誤解を解く時点でそれすらも杞憂だと、指摘できる人間はここにはいない。


「でも、黄瀬くんにはこういう華やかな場所のほうが相応しいよね」


「わたしの隣なんかよりも」と言わなかったのは、彼女の精一杯の強がりだった。彼がもし望むなら、そう思った彼女の言葉に、一瞬で黄瀬の表情が凍りつく。


「…なんだよ、それ」

「だって、前にCMのお披露目イベントの時、レポーターの人がお似合いのカップルって言ってたから」

「あんなの、その場繋ぐだけのテキトーっスよ」


吐き捨てるような黄瀬の口調に、じわりと涙が滲むのを感じてなまえは慌てて俯く。泣いているのを知られて、呆れられるのが怖かった。
そんな心情を知るはずもなく、黄瀬はなまえの手を取って玄関に向かって歩き出す。つっかけるように靴を履いて、ただ引っ張られるままに道を連れ回された。


「き、黄瀬く、」

「黙って」


名前を呼んだ声は短く切られて、引っ張られているせいでその背中しか見る事もできず。怒らせた手前、無理に引きとめるという選択肢も使えないまま、なまえは周りを見渡して、その通りの雰囲気がなんだか薄暗いことに気が付いた。
通りに並ぶ建物の用途も、ここで彼の名前を考えなしに呼んではいけないことも、彼女にはなんとなく理解できた。ここにいちゃだめだ。危機感に引いた袖をふいにされて、更に強く引かれた。


「――はい。じゃ、ヨロシクお願いしますね」


カシャン、とフロントと繋いでいた内線を切って。黄瀬は表情のないままの瞳で抱きしめていたなまえの両目を覗き込んだ。
少しだけ泣いたせいで赤く腫れてしまったそれを気にするでもなく、額を合わせてじぃっと見つめる彼は口許だけを綻ばせる。


「フロントの向こう側、すっげーザワザワしてたっスよ。遠かったけど、オレの名前も聞こえた」


ばれちゃってるみたいっスね、と。黄瀬は悪びれもせずにクスクスと笑い声を漏らす。
週刊誌で取り上げられた時とは違う。守秘義務なんてあってないような「この場所」はきっと色々な形であっという間に広まってしまうに違いない。今度こそ言い訳もない状況に、なまえは顔を青くした。こんなことで彼の評判を落とすなんて、間違ってる。


「……黄瀬くん、なんで…っ!」

「なんでこんなことしたか?そんなの、決まってるじゃないっスか」


――逃がさないためっスよ。冷めた瞳はそれが冗談ではないと語っている。
そんな事を言われても、そもそもなまえは彼から逃げようなんで思ったことは一度もない。混乱しきりの彼女の思考を塗りつぶすように、黄瀬はそのまま言葉を重ねた。


「住む世界が違うとか、そーゆーの、わかんねーよ。華やかとか、お似合いとか、周りに決められんのとかもヤだし。……スキャンダルとか、ふざけんなって感じっスよね」


事務所にも迷惑かかるし、周りも一気に鬱陶しくなるし。イイコトなんてひとつもない。嫌悪を表情に浮かべて吐き捨てた黄瀬は、そのまま向かいあったままのなまえのからだを抱き込んだ。
まるでさっきの「逃がさない」の体現のようにきつく抱きしめる腕に苦しさを感じて、なまえが身動ぎする。その小さな挙動も抑え込んだ少年は、少女の耳元に唇を寄せた。


「そうなっても良いって思えるのは、アンタだけなんスよ。…釣り合わないとか、二度と言うなよ」


たったひとつの冴えたやり方


らしくない命令する口調。それが何かを抑えるように絞り出されていると気づいて、なまえは行き場のなかった両手をそっと広い背中に回した。


「逃げないよ。だから、黄瀬くんも、離さないでね」


いっそこのまま二人で消えてしまいたいなんて言ったら、わたしの肩に顔を伏せたままの彼は肯定してくれるだろうか。
濡れて冷たくなった布の感触を肩に感じながら、なまえはゆっくりと両目を閉じた。
   
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