「あ、ねぇねぇ緑間ちょっと止まって!」
教室移動の途中、階段を上っている時に、それは突然思いついた。
不思議そうに、それでも足を止めた緑間は今はわたしの真横である。「なんなのだよ、このままじゃ授業に間に合わん」と文句をたれるのをまあまあと制止して、二段、わたしだけが階段を上る。
「見てみて!緑間の視線がわたしより下に!超新鮮!!」
「死ぬほどくだらなくて驚く気にもなれないのだよ」
心底くだらないものを見るような緑間だけど、その頭が自分より僅かでも下にある。その事実が無駄に自分を高揚させるのがわかった。
「くだらないってことはないでしょ。例えば、」
始業ベルが鳴るまであと二分。まだ余裕はあるけど階段の周りには人の気配がない。チャンス。
ないしょ話をするように手招きすれば、意外と素直なこの男がこれまた素直に耳を傾けようとする。それを、緑間の両方のほっぺたに触る事でやんわりと阻止。分厚いレンズの奥で、深い緑色の瞳が少しだけ見開かれた。
「ほら、わたしが背伸びしなくてもキスできる」
触れる本当に寸前で、ぴたり。向き合うだけで距離を縮めるのを止めると、すぐに離れる。ちょっとしたいたずらだ。優位になった気分で「さあ教室に行かないとね」なんて促して、緑間に背中を向けた。
それがいけなかった。
「おい、」
「ん、なーにぃわぁああ」
思いきり後ろに引かれた腕に、バランスをくずしたわたしの体は背中から後ろへ倒れ込む。すとん、と収まった場所がどこかを理解するより早く、わたしの顎に添えられた指が少しばかり乱暴に上を向かせた。
「…………そういうの、反則じゃないっすか、緑間さん」
「フン、先に仕掛けたのはそっちだろう」
「おあいこなのだよ」と偉そうな言葉を吐くその唇がほんの僅かだけど濡れているのを見つけてしまったわたしは、結果として優位に立つことは叶わなかったのでした。