二人きりの時間

誰もいない教室で男女はたった二人、同じ方向を向いて机についていた。今の時間というのは課題を居残って、黙々としている最中である。授業中にあまりにも居眠りが多い、と数学の教師から指摘を受けた私たちのみに与えられたものだった。

私は彼より後に教室に入ったため、何故だか気まずくなり、最前列に座る彼の3つ後ろにそっと座った。その時、会釈すらも交わさず、お互い俯いたままでいた。

実はというと、彼は密かな私の想い人。今という今まで、遠くから眺めることしかなかった。我が青道高校野球部のピッチャーでエース、丹波光一郎。部活動のことになると、真っすぐな勇ましい表情をみせる。しかし、上がり症持ちで、顔を真っ赤に染める様子もある。そんな時折見せる可愛らしいギャップもまた堪らない。

後ろから穴があいてしまいそうな程に見つめる彼の背中は、やはり野球をしている人なんだな、と納得してしまう。と、同時にその大きな後ろ姿に惚れ惚れしていた。
その時、彼の机から何やら白いものが転がった。これぞ、チャンス!そんなことを思った私は迷わず立ち上がり、白いものを拾い上げた。すると、彼が振り返る。

「あ、名字…悪いな。」
「いいえ。はい、どうぞ。」
「あ、ありがとう。」

消しゴムを手渡す。このやり取りだけでも、私にとってはとても貴重で幸せだ。それなのに、もっともっと、と欲張りになってしまう。今の私はどう仕様もない。だって勿体ない。次はいつ彼の目に留まることができるか、わかったものではないのだから。

「教えてもらえませんか…?私、数学苦手で…」
「…は?」

突然何を言い出したのか、自分自身も慌てる。案の定、丹波くんも目を少し目を見開いて、唖然としていた。

「あっ、あの、私、そのっ文系で…!」

なんて計画性のないことを口走ってしまったのか。驚く丹波くんの表情に、ますます恥ずかしくなり、挙動不審になる私。嗚呼、自分のコントロールすら出来ない。自分でもなんて訳のわからない、と反省をしていた時だった。

「べ、別に俺も大したことはないんだが…」

ぽつり、とそう呟いた丹波くんの顔を見た。その瞬間、慌てた様に目を逸らした彼は、耳まで真っ赤に染め上げていた。

「俺でよければ…教えるが。」
「えっ、いいんですか?!ぜ、是非お願いしますっ。」
「あ、ああ…。じゃあ、#名字#、こっちへ来てくれ。一緒にやろう。」
「…はいっ!」

絶対、名字の方が数学出来るだろ、とか呟きながら、2つの机を向かい合う様に動かしてくれた。その机に従い、私たちも向かい合う。改めて準備された課題のプリントを眺めていると、クラクラする。先程、咄嗟に私が吐いた台詞は、決して嘘ではなかった。

「おい、名字…?」
「あはは、難しいですよねー、二次関数って。あはは…」

要所要所を笑いでごまかそうとしながら、目線を彼の手元へやった。すると、これは一体どういうことだろう。メモらしき数式がいくつもあり、すでに答えが幾つか出ている。もしかしなくとも私、カッコ悪い?と少しショックを受けていると、丹波くんが相変わらず赤く頬を染めて、私の気持ちを察してくれた。

「い、いきなりか。どこがわからないんだ…?」
「全部です。」
「なっ…」

そう言うと、先程も見たような唖然とした顔になっていた。彼がそうなるのも、当たり前だ。このやり取りは、学校の塾の先生でさえ嫌がる。しかし、丹波くんは、呆れる様子を見せない。それどころか少し前屈みになり、教える姿勢になった。

「意外だな。」
「え?」
「名字は日直とか、体育とか…いつも、一生懸命こなしてるから…」
「いやいや、普通に日直してるだけですよー。あはは。」

普段も今も滅多に目こそ合わないが、寡黙な彼の口数が突然に増え、会話が出来る嬉しさ半分、驚く私だった。そんな私を余所に、会話は続く。そして、私はあることにふと疑問を抱いた。

「名字は、何でも出来そうなイメージだったから…少し、驚いたな。」
「あの…」
「な、なんだ。」
「どうして、私の名前知って…というか、いつもって…」

そうさりげなく問うと、丹波くんは如何にも都合が悪そうにぎょっ、として固まってしまった。これはまさか、と困惑と期待が入り混じる。すると、丹波くんは背もたれにもたれ直し、腕を組んだ。さっきまでの彼とは違い、口調が覚束なくなっていた。

「それは、その…日直の時、黒板に書いて、あった…それだけだ…」
「それだけでそんなに、見ててくれたんですか?」
「うっ、いや…」

丹波くんは、ばつが悪そうにそっぽを向いて黙り込んだ。そんなつもりはなかったのだが、少し意地悪を言ってしまったかな、と私はおどおどした。

「なんか、ごめんなさい。そんな困らせるつもりは…」
「い、いいな…って思った…」
「え…」

微かに聞こえた丹波くんの、さすがにここまでは想像だにしなかった言葉は、確かに聞き取れた。あまりにも照れた様子の彼は、林檎の様に真っ赤で、綺麗に剃られた頭からは湯気が出ていた。

「前からいい子だな…って、思ってたんだ…」

その一言だけ、真っすぐな瞳がとても印象的だった。やはり全身が真っ赤になっていたが。それがさらに、真剣さを訴えている様に感じた。

「も、もういいだろっ。早く課題、終わらせよう…!」

必死にはぐらかそう、と私のプリントを手の平でトントンと促す。嬉しくて堪らない私は、チラッと彼を見た。

大きな体の可愛い人、まだ頬がほのかに染まっている。

どうしようか、にやけが止まりそうもない。



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