せっかく逃げられたのに、また戻ってきちゃったんだね――。くすくすと笑う彼の声がはずかしくて、掛けられた毛布を顔まで被るわたしに、沖田さんは「隠れないでよ」とわたしの肩の位置まで毛布を下げ、耳まで紅に染まったわたしを見下ろし不敵な笑みをたたえた。
「そんなに笑わないでください……!」
「あはは。ごめんごめん、体調はどう?」
「もう、大丈夫、です」
 あれから意識を失ったわたしは斉藤さんによってこの部屋に運び込まれ、再び目を覚ましたら食べるようにといわれた真っ赤なりんごが、今は沖田さんの手の中で遊ばれている。宙と沖田さんの手のひらを行き来するみずみずしい赤い色をどこか遠くに眺めていると、沖田さんは「食べる? いるなら剥いてあげるけど」とその手を止めた。あまり食欲のなかったわたしは首だけで返事をする。沖田さんはふうんとアンティーク調のナイトテーブルの上にりんごを置き、そのまま彼の視線はわたしの首筋をかたどるように撫でて、まるで溜息の一部ように言葉を吐いた。
「その痕、一くんだね。よりにもよって彼に見つかっちゃうなんて、君もほとほと運がないよね」
 首筋に感じる沖田さんの視線が何だかはずかしくて、あわてて手で隠す。そういえば斉藤さんもわたしの痕を見て沖田さんだと言っていたけれど、痕を見るだけで分かるものなのだろうか。思わず尋ねると、
「さあ、長い付き合いだから分かるんじゃない。こういうのって意外と癖が出ちゃうものだからね。特に一くんは左利きだから、僕らと違って痕が右につくんだよ」
 右側の首筋を指し示し、ね? と彼は首をかしげる。
 肌触りのよいベッドから上半身だけを起こし、鋭利なフォークで刺したようなふたつの穴をなぞるように触れる。そうして思い出された記憶に、じわりと頬が熱に焦らされた。わたしを覆い、見下ろした低温無色の瞳。押し付けられた手首にまだ力の感触が残っている気がした。
 そうして下向きになったわたしの視線と紅葉色の頬に気づいたのか、沖田さんは俄かに色を落とした声で、
「……一くんはああ見えて独占欲が強いからね。あの時彼に見つかっちゃったのは失敗だったかな」
「え?」
 反射で持ち上がった視線に、沖田さんはそっと視線を絡めあわせる。誰もが大切に磨きたくなる、美しい色を持ったペリドットの瞳に貼り付けられたわたしの身体は、時間が止まってしまったかのようにぴたりとも動かなかった。
 そうして沖田さんが笑みを浮かべて、その瞬間に魔法が解けたかのようにわたしはぱちりと瞬きをする。そういえばこんな風に沖田さんと話すのは初めてのことかもしれない。意識すると同時になんだか気恥ずかしい思いが胸を満たして、思わず熱に潤んだ目を逸らした。
 対して沖田さんは、まるで悪戯が成功した子供のような笑みと軽快な口調で、
「そろそろ君も、僕に血を吸われることに慣れたらいいのに。僕が来たら黙って首を差し出すくらいの心意気が欲しいよね」
「なっ……! そんなことできません! お、沖田さんなんてきらいです」
 ぽすりと勢いよくベッドに寝転がり、彼と反対の方向を向いてぎゅっと瞼を閉じ合わせる。しばらくそうしてみるものの、反応のない彼に見えない焦りや不安にも似た何かが胸を過ぎった。心がじわりと変な汗をかく。きらい、なんて言い過ぎちゃったのかな――と衝動に駆られて振り返ると、そんなわたしの些末な思いに反して、沖田さんは不敵に微笑んだまま。弧を描いた唇がその角度を広げ、そのままベッドに乗り込んだ彼はわたしの左右に手をついて捕らえるように見下ろした。弾力のよいベッドがふたり分の重みに沈んでいく。

「冗談だよ。君のこういう反応が見れないんじゃ、僕もおもしろくないからね」
「おきた、さ……! ずるい、っ」
「そんなか細い声で言われたって聞こえないよ」
 それとも、今すぐこの口も塞いじゃおうか。
 震える声は沖田さんに食べられてしまったのか。耳元をくすぐる羞恥的な言葉はわたしの熱を煽るには十分すぎる程に甘美だ。ふ、と吐息を吐くように小さく喉で笑って、どくどくと高鳴る心臓に顔を近づけた沖田さんは、そのまま胸元に小さなキスを落とす。
「っ、あ、」
 首元からぐっと服を引き下げ、あらわになった胸元に彼はもう一度口付けた。ちくりとした小さな棘のような甘い痛みのあと、彼はその整った顔を持ち上げる。
「君の血は僕のものだよ」
 愉しみに耽るような、そんな言葉をひとつ。
 胸元を彩る、まるで契約印のような赤い三日月が、不吉に笑った。


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