廊下を出たわたしは、右も左も分からないまま、それでも走り続けた。しばらくベッドの上で生活していたせいか、すぐに息が切れて、縺れそうになる足は二つだけ前に進んで、止まった。そうして来た道を振り向いても沖田さんはおらず、壁に等間隔に設置された蝋燭の灯りだけが立ち止まるわたしの影をゆらゆらと揺らしている。荒い呼吸をどうにか整えながら、わたしは廊下と螺旋階段の分岐点に立ち、ようやく辺りをぐるりと見回した。
 幼い頃に見た絵本の中のような、古びた洋館。建物を支える柱はとても古く、豪華なシャンデリアには蜘蛛の巣がかかっているのが見える。どうにも薄気味悪くて、ぞくりと身体が震えた。
 ここまで逃げてきたのはいいけれど、わたしは一体どこに向かっているのだろう。逃げたいのは、沖田さんからか、それとも――。そんな惑いがわたしの足をせき止める。振り返った廊下が延々と続いているような、そんな錯覚だった。そうして螺旋階段を駆け下りようとしたわたしの身体を、強い力が引き止めた。悲鳴を上げる間もなく冷たい手が口元に押さえつけられる。そのまま向かいの部屋まで引きずられ、わたしは投げ出されるように部屋の中に押し込められた。

「ここで何をしている」
「……さいとう、さ、ん」
「此処からは逃げられぬと言ったはずだ。言うことを聞かないようであれば、今すぐお前を殺す」
 投げ出されたソファの上。冷たいサファイアブルーの目に見下ろされたわたしは、身体を起こそうにも力が入らず、そうともなれば怯える目を斉藤さんに向けることしかできなかった。ごめんなさい、と呟いた声はきっと彼に届くまでに消えてしまって、今にも泣き出しそうなわたしを一瞥した斉藤さんは、何かに気づいたようにそっと目を眇めた。
「……総司か」
「――え? やっ」
 そういって斉藤さんはわたしの顎を手で掴み、ぐっと上に向けた。あらわになった首筋には艶かしい吸血痕が二つ。先程までのことを思い出して、じわりと頬に熱が灯もる。やめて、見ないで、おねがい。今にも消えてしまいそうな声で拒絶の言葉を並べるわたしに、斉藤さんはその整った顔を顰めると、空いた手のひらをわたしの手首の上に重ねてソファに押し付けた。わたしの上に覆いかぶさるようなその姿勢に、今度は別の意味で顔が熱くなる。
「お前の体調が整うまではと思っていたが」
「……さいと、さん?」
「走り回るくらいの元気はあるようだな」
 沖田さんのつけた痕を忌々しく見下ろした斉藤さんは、その反対側の首に歯を突き立てた。突然の行動に大きく身体が跳ねる。どうして。斉藤さんは、そんなことしないって――。心の中で積み上げていた信頼や好意にも似た何かが、一気に崩れていく音がした。それでも重なる身体に反応する鼓動や熱が、わたしの身体を浮わつかせる。
「っ、――いや、っぁ」
 必死に言葉を重ねるわたしを黙らせるように、斉藤さんは手首をより一層強く押し付ける。革のソファに沈む身体と、耳元をくすぐる様な彼の吐息がいやに扇情的だった。身体の中心を茹だるような熱が刺激して、じくじくと疼く。それだけでどうにかなってしまいそうだ。
 首筋から顔を持ち上げた斉藤さんとの距離に、再び頬が熱くなるのが分かった。さすがに血を吸われすぎたのか、頭がくらくらした。
「やはり、お前の血は甘いな」
 ”君が快感を得るごとに、血の味は甘く、美味しくなっていくんだ”
 さっきの沖田さんの言葉を思い出して、どうしようもなく恥ずかしくなる。堪えていた涙がぽろりと落ちて跳ねた。こうして血を吸われることが嫌なのか、それを快感に思ってしまう自分が嫌なのか、自分でもよく分からなかった。
「ひどい、沖田さんも、斉藤さんも……」
 次第に意識が遠くなっていく。目を閉じる最中、最後に見た彼は笑っている気がした。


×