夜が更けるにつれて、遠くに見える街の光がひとつ、またひとつと消えていく。失われた血が戻るまでに、満月は半分欠けてしまっていた。長い時間をベッドで過ごしていたせいか、まるで世界から取り残されて、ひとりぼっちになってしまったような感覚が心をぎゅっと締め付けて、そんな小さな焦りからついてでた溜息が窓を薄く曇らせた。
 あれから何度か交代で見張りにきた平助君(と呼ぶようにいわれた)や原田さんたちが教えてくれた話によると、ここは吸血鬼である彼らの住処らしい。この場所を提供してくれているのは『近藤さん』という人で、土方さんたちはその恩義もあって、普段は近藤さんが経営する会社の手伝いをしているということだった。

 軽く水分をふき取っただけの髪から垂れた滴が肌をすべる。以前はシャワーを浴びてる最中にも何度も倒れそうになっていたけれど、最近ではあれほど悩まされていた眩暈も立ちくらみも収まり、元の調子に戻りつつあった。
 ほっと安堵の息をついた、そんなわたしを見透かしたように、唐突に部屋のドアが開いた。
「おはよう。ナマエちゃん」
 危険だ、と心臓が早鐘を鳴らす。
 聞き覚えのあるその声にあからさまに身体を固くさせたわたしの反応に、声の主は少し首をかしげ、それでも薄い微笑みをたたえながら、
「あれ。平助とか一君が来たときにはわりと楽しそうにしてるみたいだけど、僕のことは歓迎してくれないんだね」
「――お、きた、さん」
 後ろ手でドアを閉め、コツコツと軽快な音を携えて沖田さんは部屋の中へと歩みを進める。逃げるように後退するわたしの背中は、それでもすぐにつめたい壁の感触を捕らえていた。
「君の血が飲みたいな」
「や、あ、……ま、まってくださ、」
「もう随分待ったよ」
 すっと目を眇めて、彼の長い睫毛が影を落とす。どろりとした欲があふれ出した、扇情的な目に縫い付けられたわたしの身体は、逃げようともがくわたしの心と離れてしまったかのように動かなかった。
「いい子だね、ナマエちゃん」
「っ! っ、や」
 耳元でささやくような声がくすぐったくて、思わず顔をそむけた。羞恥にからだが火照る。鼓動の音が届いてしまいそうだった。寄せられた沖田さんの唇がそっと首筋にキスをして、触れた舌の感触に、こぼれそうになる声を手のひらで抑えた。
「やめて、おねが――……い、っあ、!」
 がくん、と力の抜けた身体を背中に回した手で支えながら、沖田さんはわたしの血を吸っていく。抵抗するために伸ばした手は彼の服を掴んだだけで、引き離すには到底叶わなかった。拒絶しようとする心と、ぶるりと体内を奮わせる快感にも似た何かに犯された身体がちぐはぐになる。
「……っほんと美味しいよね、君の血」
「っ、ん、ぁ」
 ふたつの傷口から滲み出る血を舐めながら、少しだけ切羽詰ったような沖田さんの声が鼓膜を揺り動かす。
 怖い、こんなのいやだ、でも――きもち、いい。彼の行為に応じて熱を持つ身体と、じわりと侵食するようなその感情が信じられなかった。上昇する熱に頭の中がふやけてしまったかのように、何もかもをゆるしてしまいそうになる。どうして。そんなこと、あるはずがない。わたしは今だって、怖くて、逃げたくて、しかたがないのに。
 そんなことを思ってしまう自分がはずかしくて、その感情を振り払うように、ありったけの力をこめて沖田さんを押し返した。わずかな抵抗は彼を数センチ引き離すことだけしかできなかったけれど、わたしの行動を予想していなかったのか、沖田さんは驚いた顔をして、少しだけ掴む力を緩めた。その隙を利用して、わたしは小さな身体をねじらせて彼の腕の中から逃げ出した。

 ドアノブに手をかけた瞬間、「ナマエちゃん」と沖田さんはわたしの名前を呼んだ。おずおずと振り返ると、彼は楽しくて仕方がないというように口元に笑みをたたえながら、
「君が快感を得るごとに、血の味は甘く、美味しくなっていくんだ」
 ――美味しかったよ。ごちそうさま。
 部屋を飛び出したわたしの背中で、そんな声が聞こえた気がした。


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