静まりかえった部屋の中で、わたしはただ浅い呼吸を繰り返していた。傍らには男の人が一人、ソファーに腰掛けて書物に目を通している。おそらくはわたしの見張り役だろう。一方のわたしは逃げ出す気力はおろか、ここから立ち上がる力ですら残ってはいなかったのだけれど。
 どうにか上半身を起こすと、彼――斉藤さんは視線だけを寄越し、「どうした」と低い声音で囁いた。身体がぞくりと反応する。震える自分を抱えるように両手で抱きしめて、せめて声だけでも気丈にあるようにと喉を振り絞った。
「わたしは、これからどうなってしまうんですか?」
「少なくとも、此処から二度と出れぬことは確かだ。後は俺の知るところではない。大人しく血を提供すれば、誰もあんたを殺しはしまい」
 色を持たない淡々とした声が、ただ事実だけを告げていた。「あんたの血は価値がある」斉藤さんはそう続けて、そっと本を閉じわたしを見据えた。
「……何故、お前はあのような所に居た」
 その無駄のない動作と伴う表情を、まるでピントのずれたカメラのように眺めていたわたしは、突然の質問にわずかに動揺していた。”あのような所”という言葉の意味を考え、そして思い出した。あの時、意識を失う間際に聞いた、鈴を放ったような凛とした彼の声。初めて彼を見た時どうにも見覚えがあると感じたのは、きっとそのせいだったのかもしれない。
 あの時わたしを助けてくれたのは斉藤さんだったんだ。根拠のないその事実が、藁にも縋りたいわたしの心を少しだけ落ち着かせていた。

「逃げてきたんです。あの家から」
 彼は何も言わない。わたしはひとつひとつを吐き出すように、小さな声でつむいでいった。
 あの家はわたしの檻だった。毎晩新しい傷がつけられ、お前はいらない子なのだと父は何度もわたしに言い聞かせた。ある日突然父が暴力を振るうのをやめたかと思えば、もうすぐわたしは売りに出される寸法が付いていたことを知った。その夜、すべてを残し身一つで家を出た。行く当てはなくとも、あそこに留まるよりかは何倍もましだと、思った矢先の出来事だった。
 わたしはもうずっと、悪夢を見ているのだ。

「……俺達はお前の血を吸いこそすれ、それ以外に好んで傷をつけることはない。そやつと違って、女子供に手をあげる趣味など誰も持ち合わせていないからな」
 いつの間にか乱れていた呼吸を、落ち着かせるような声だった。そのまま徐に立ち上がった斉藤さんを視線だけで追いかける。それにつられるように、しっとりと濡れた目尻からこぼれ落ちた涙の一滴が、すらりと頬に筋を曳いた。
「起き上がる気力が出たなら、そろそろ何か食べるといい。待っていろ」
 部屋を出る彼の背中を見送って、丸い染みがまだらにできたシーツをくしゃりと掴む。彼といることでどうにも安心している自分に気づいて、せりあがってくる嗚咽を涙と一緒に飲み込んだ。



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