いっそ目が覚めなければよかったのかもしれない。
 しっとりと瞼を持ち上げると、見覚えのない天井が飛び込んできた。視界に切り取られた見慣れぬ景色はどうにも夢のようで、ならこれはどこまでが夢の中なのだろうと重い頭で考える。記憶の糸を辿ればわたしはあの家から逃げ出して、薄暗い路地裏で仮眠を取るべく目を閉じたはずなのだけれど、だとすればどうしてこんなところにいるのだろうか。
 どうにか状況を探ろうと身体を起こそうとしたその瞬間、ひどい眩暈が襲い掛かってきた。平衡感覚がまるでシーソーのようにぐらりと揺れて、寝転んでいる今ですら下へ下へと沈んでいくような、そんな錯覚だった。振り落とされそうになるわたしは必死にベッドのシーツを掴む。
 その瞬間、すべての記憶が頭の中を駆け回った。満月を背にした男の人。首筋につきたてられたつめたい何か。それから――


「あっ。起きたのか?」
「っ、!」
「あんまり起き上がらないほうがいいぜー。眩暈、すごいんだろ? ったく、総司はやりすぎなんだってのー」
 どうにもからだが動かずに視線だけで声を追いかけると、声の主はベッドサイドの椅子にぼすりと腰掛けた。わたしとあまり歳の変わらなさそうなその容姿は、どちらかというと少年に近いような印象を受けた。なんとなくほっとして、わたしは視線だけでうなずく。
「とりあえず俺みんなを呼んでくるけど、オマエ絶っ対にここから動くなよな。ひっでー貧血らしいからさ」
 忠告の言葉を残して彼はぱたぱたと忙しなく駆けていった。どちらにしろ動く気力など残っていないわたしはおとなしく天井を見上げる。重いドレープカーテンで遮断されているせいで少し薄暗い室内では、今が昼なのか夜なのかすら判断しがたい。
 ここはどこで、さっきの男の人が言っていた”みんな”とは一体誰なのだろうか。
 なんだか嫌な未来をみた気がして、わたしはぎゅっと瞼を閉じる。そっと首筋にあてた手が、ぷくりと小さな痕をなぞった。――やっぱり、これは現実なんだ。なら、わたしは一体どうすればいいのだろう。

「おい、こいつか」
 降りかかった声にはっと目を覚ますと、目の前には何人かの男の人がわたしを見下ろしていた。どうしようもなく硬直していると、ひとりの男の人がそっと手を伸ばして頬に押し当てた。反射でぴくりと身体が震える。
「可哀想に。すっかりびびっちまってるぜ? 顔色も悪いしな。いったいどんなトラウマを植え付けちまったのかねえ、総司は」
「原田。お前も反応みて楽しむのはやめろ」
「はいはい。ま、土方さんからこいつにてめえが置かれてる状況でも説明してやってくれよ」
 土方さん、と呼ばれた男の人は怯えるわたしをじろりと一瞥すると、困ったように溜息をついた。「おい、これがバレでもしたら上が黙っちゃいないぜ」とやや諦めたように彼は呟く。そして未だに状況を掴みかねているわたしに向きなおし、
「お前、名前は?」
「あ――ミョウジナマエ、です。あの」
 蚊のなくようなわたしの声に、それでも土方さんは耳を傾けてくれているようだった。原田と呼ばれた男の人はどこか楽しそうに脇のソファに腰掛け、目が覚めて最初に会った少年は土方さんの後ろで覗き込むようにわたしを見ている。
「あなたたちは、いったい、だれ?」

「ヴァンパイアだよ、僕たちは」

 わたしの問いかけに、応えたのは土方さんではなかった。
 ”――君の血を、頂戴”
 あの悪夢のような現実で、わたしにささやかれた声。ぞくりと肩が粟立った。ああ、これは本当に、夢なんかじゃないんだ――。彼はあの時と寸分も変わらぬ顔で、わたしに向けて唇をやわく持ち上げた。
「おはよう。血はもう戻った?」
「っ、あ……」
「総司! お前はちょっと黙ってろ。これ以上こいつをびびらせてどうする」
「土方さん。遅くなって申し訳ございません。ただいま戻りました」
「ああ斉藤、ご苦労だったな。ちょうどいい、お前もここにいろ」
 斉藤と呼ばれた男の人は首肯だけで返事し、じっとわたしを見据えた。顔立ちの整った、とてもうつくしい人だった。どこかで見覚えがあると記憶を辿るも、五人分の視線を一気に浴びている今はどうも身じろいでしまう。

「さっきのお前の質問だが――俺達はヴァンパイアと呼ばれる種族だ。お前達人間は知らなかっただろうがな」
 目の当たりにしてもなお、にわかに信じがたいその単語にどうにも首が傾く。夜の世界を生きる、人の生き血を吸う人間じゃない誰か。ヴァンパイアとは、わたしが想像しているようなものであっているのだろうか。
「これは随分昔の話だが、人間なら誰かれ構わず食っちまうようなヴァンパイアが街を横行し、それに見かねた人間達と殺し殺されの生活を送ってきた。俺達だって不死身じゃない。昔の武器ならともかく、銀の弾丸が当たれば死んじまうこともある。そんな生活が何百年と続いたある日、人間がヴァンパイアに交渉を持ちかけてきた。これ以上の無闇な殺し合いはやめるべきだ。人間側から餌を提供する代わりに、ヴァンパイアは表世界からは潜んでもらえないかってな。残り少ない同族をこれ以上減らさないためにも、ヴァンパイアはそれを承諾した。そうして、表の歴史の中からヴァンパイアの存在は隠滅されてきた」
 餌を提供する――そんな言葉に、ぶるりと背筋が震えた。わたしの知らない世界で、一体何人の人が死んでいったのだろう。
「だから、こうやってお前が今ここにいるのは本来俺達にとってルール違反だ。ったく……総司! 勝手なことはするなっていつも言ってんだろうが!!」
「やだなあ、連れて帰ったのは一君との相談の結果ですよ。それに、土方さんもこの子の血を一滴でも舐めたらそのお堅い考えも変わっちゃいますよ。分かるでしょ? 今は血が少ないから控えめとはいえ、その上質な血の匂いが。最近は政府のやつらもマトモな餌を寄越さないんだし、他のやつらに取られたら勿体無いじゃないですか」
「ずりーよ総司と一くん。いいなー。俺もはやくこいつの血、飲みてぇなあ」
「平助にはあげないよ」
 普通じゃない。でも彼らの中では、これが普通の感覚なのだ。その事実が、どうしてもわたしの身体を震わせる。

「本来、君がここにいるのはイレギュラーなんだ。僕達としても、君の存在がバレちゃったらまずいんだよね。だから――」
 呼吸が荒くなる。伸びた手がわたしの髪を絡めて、彼はとても楽しそうに、嗤う。
「僕達は、君をここから逃がさないよ」

 これは、悪夢だ。



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