寝静まった夜の街に、満月が曳いた影が一つ。わずかな風に乗せられた馨しい香りをただ頼りに、月明かりの下を夢遊するように歩く。どこかで闇と一体化したカラスが鳴くのを聞きながら、咽るような甘い血の匂いに思わず舌をなめずった。
 勝手に屋敷を抜け出した僕を土方さんは怒るだろうけど、今はそんなことも些末に思えてしまうほどに、本能的な欲求が僕を追い立てていた。
 ――血が、欲しい。
 単純に言えば、空腹。されど僕らは人間のように食事はできても、決して腹が満たされることはない。僕たちヴァンパイアを満たせるのは女子供の生き血だけだ。その”食事”でさえ、ここ最近は満足にできていない。
 とはいえど、人も街も眠ってしまったこの時間に女が出歩くとは思えない。それでも、ヒトよりも優れた嗅覚はその存在を強く訴えてくる。どうせなら賭けてみようかと半ば面白半分に寝室を抜け出したのは数十分前のことで、そうともなればお預けをくらったように僕の吸血衝動はじりじりと疼いていた。唇を噛む。

 一層強くなる香りに思わず立ち止まると、研ぎ澄まされた聴覚がわずかな音を掴んだ。規則的な呼吸音。足音は聞こえない。そう遠くはないはずだと逸る気持ちを押し付けて僕はゆっくりと”それ”に近づいていく。そうして辿りついたその先で、少女がひとり、壁に寄りかかるようにして眠っていた。思わず息をつく。
 ――いくらなんでも、こんなところで寝てるなんてちょっと無防備すぎるんじゃないの。寝てる間に怪しい男に何かされたらどうするのさ。
 考えて、その怪しい男が自分であることに気づいて僕は苦笑する。そっと顔をよせると、より強くなる芳香と吸血衝動に思わず顔をしかめた。
「……っ、ちょっとこれ、アタリなんじゃない」
 このまま細い首筋に齧り付いて、飽くまで血を吸い上げてしまうのは簡単だけれど、それでは面白みがない。それに、抵抗でも何でも少しは動いてもらったほうが血の濃度や甘みも増すものだ。
「ねえ」
 声を掛けども起きる気配はない。あまり気は長い方じゃないんだけど、と少し強めに肩を揺らす。次第に薄らと瞼を持ち上げた少女は僕の姿をその目に映すと、その器量のいい顔は見る見るうちに色を失っていった。声を出される前にすばやく口元を手のひらで押さえると、薄紅色に染め抜かれた唇が「やっ」と小さな音を出して震えだす。
「大きな声だしたら、殺すよ」
 少女は首を折るように頷くと、僕が何者であるかを考えるようにおずおずと視線を向けた。ゆらゆらと揺れる瞳からは今にも涙の一粒が落ちてきそうだ。楽しくて楽しくて仕様がない僕はにやりと笑う。唇から覗いた二つの牙に、少女は抵抗するように大きく震えた。

「君の血を、頂戴」

 言うが早いか、ついぞ待ちきれなくなった僕は少女の首元へと噛み付いた。舌に乗った血はまるで熟れた果実のように、今まで飲んできたどの血よりも芳醇で甘美だ。透明な水に垂らした一滴の墨のように深く舌に染み込んでくる。美味しい。美味しい。もっと。早く。耐え切れずに強く吸うと、少女はびくんと身体を震わせた。それに比例するように、血の味が濃厚になる。
「っ、あ……っいたい、っう」
 小さく喘ぐ少女の顔が紅を散らしたように高揚していく。僕には分からないことだけれど、吸血には性的快感を伴うらしく、女が性的興奮を抱けば抱くほど血の味は甘みを増すらしい。今までには気にも留めていなかったことだが、これを試してみない手はない。
 少女の力が抜けていくギリギリのタイミングを見計らって牙を抜く。そのまま唇に口付けて、舌をかき回す。染み付いた血と唾液が混ざって朱色の唾液が流れた。唇の隙間から、少女の苦しそうな息が漏れる。それらもすべて、今の僕には興奮剤にしかならない。
「んっ、ふぁ、……っ、――!」
 服を引きちぎると、下着に包まれた白い胸元が見えた。取り乱し涙を溢しながらあわてて隠そうとする手を手首ごと押さえ込む。すっかり力の抜けたそれを拘束するのはいとも容易いことだった。紅潮した頬につたう涙を舌で掬い上げてそのまま柔い胸元を舌でなぞる。涙交じりの小さな声がそれでも控え目に喘ぎをあげて、僕は自分が今までになく興奮していることに気づく。咽るようなこの匂いが、僕をそうさせているのだろうか。
「やっ、ぅ、もう、ゆるして……っぁ」
「まだだよ。やっと見つけたんだ」
 再度首筋に齧り付いて、下着をずらして胸をやわく揉む。胸の赤い飾りを指で転がすたびに甘みが増していく。少女の手がだらんと空を切った。かすかな声がうわ言のように喘ぐ。まだ、もっと、もっと血を――。


「総司。その辺にしておけ」
 聞きなれた低い声にしぶしぶ牙を抜き顔を上げると、同時に少女が意識をなくして自分の胸に倒れこんできた。真っ青な顔色を見つめて、どうやら血を吸いすぎてしまったことを知る。それでも喉はまだ飽くことなく彼女の血を求めていて、それを拭い去るように口に垂れた血をぬぐった。
「なんだ、一君か。いいところだったのに、惜しいなあ」
「土方さんがお前を探している。急いで帰れ」
「はいはい。分かってますって」
 少女に視線を向けきまずそうに目をそらした彼への配慮として、はだけた少女の胸元を直していく。「もういいよ」と彼に声をかけると、再度少女を見つめなおした彼は眉をしかめた。
「先程から思ってはいたが、異常なまでに濃い匂いだな。上等な血の匂いだ」
「味も想像以上だよ。どうせなら一君も飲んじゃないよ。――お腹、減ってるんじゃないの?」
 彼はしばらくその場に立ち尽くしていたが、この匂いに圧されたのか、やがて彼女の首から垂れた血に指を絡めて綺麗に舐め取った。
「これは――」
 目を見張る彼に、僕は唇を緩ませる。このまま放っておけば、次第にこの匂いに誘われた他の勢力が彼女の血を吸いつくしてしまうだろう。それでは僕の気がすまない。この血は、彼女は、僕たちのものだ。その確信があった。僕は座り込んで、ぐったりとした少女の頬を撫でる。まだ若く新鮮な血。この味はきっと、処女。
「ねえ一君。提案があるんだけど――」

その日、一人の少女が街から姿を消した。



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