「せんせい、」 車から降り立った先生は、そうして少し上擦った声でわたしの名前を呼んで、すっかりと冷え切ってしまったわたしの身体を壊れ物を扱うかのようにそっと抱きしめた。「名前ちゃん、帰ろっか」優しい声が降って来る。目を閉じたわたしの涙はもうすっかり枯れてしまった。 凪いだ海の 波打ち際をただよう わたしの瞳を見ようとしないで もう 泣かないで そう囁く先生の声が 震えていたこと なんて 〇 ゜。 。 擦れたFMラジオが下り坂になる明日の天気を告げていた。空は黒とも灰色ともつかない姿で街の色を飲み込んで、静かにつめたい息をする。 「寒くない? 温度あげよっか?」 「大丈夫です。もう十分あったかいから」 わたしの言葉に先生は安心したように笑うと、前の車に合わせてブレーキを踏んだ。少し寂しい街路樹の並木道。窓の外にはわたしの知らない街が映っている。 「ぼくの授業の時、いなかったからさ。ちょっぴり嫌な予感してトッキーに聞いたら名前ちゃんは無断欠席してるっていうから、先生大慌てで仕事終わらせてマイカー走らせたよ」 「あ……迷惑かけて、ごめんなさ」 「いーいよん。でも今度からはぼくでもトッキーでもいいからちゃんと連絡してね。そしたらすぐに迎えにいってあげられるでしょ」 トッキーも心配してたよ。少しだけ困ったように笑って、その空気を誤魔化すように先生はステレオから流れる流行りの歌に口笛を乗せた。 今年度からのわたしの担任である一ノ瀬先生はとてもかっこよくて、言葉遣いが丁寧で、授業だってすごく分かりやすい、生徒からも人気がある先生だ。そんな一ノ瀬先生が眉を下げて困っている姿を想像して、どうしようもなく申し訳ない気持ちになりながら、制服のスカートを握り締めた。そうしてすべてを忘れようとするわたしの傍で、移りゆく景色だけが、めまぐるしく変わっていく。 それでも、全てがそうであるように、思い出だけは残っていた。 あの日、泣きそうな表情でわたしを見て笑った、先生の目も。 「ちょっと休憩しようか」とどこかのコンビニに駐車した先生は、そのまま中に入り、あたたかいミルクティーを買ってきてくれた。熱を逃がさないようにと両手で包み込んで一口含む。おいしい、と呟くわたしを見て安心したように、先生は人差し指だけでプルタブを持ち上げ一口飲んでから、そのままドリンクホルダーに自分のコーヒーを差した。 本来そこにあるはずの沈黙の上に、誤魔化すように先生は鼻歌を乗せる。無神経を装ったやさしさとその巧みな話術で場を丸く収めることを先生は得意としていて、そんな気遣いを知るたびに、どうしようもなく胸が苦しくなる。 「さて、これからどうする? このまま君の家まで送ろうか」 わたしは言葉を探すようにうつむいて、結果何も言えずに首だけを横に振った。 「そうだね。ぼくも今の君をひとりにはできないかな」 「……先生、せんせ、あのね」 「うん。ちゃんと聞いてるから」 「ひとりに、なりたく、なくて」 「君が落ち着くまで一緒にいてあげるよ。だから」 あんなに冷たい場所に、一人で行かないで。 振り絞るような先生の声は、エンジンの音で掻き消された。 そうしてわたしは言葉を留める 貴方の嗚咽の幻を 視た気がして 「先生、あのね 」 〇 ゜。 。 先生の家に来たのは初めてだった。ひどく緊張しながら脱いだ靴を重ねるわたしに、先生はスリッパを差し出して、「そんなに緊張しなくていいんだよ」と笑いながら手招きした。 「あんなところに長い時間いて、身体冷えたでしょ。シャワーでも浴びておいで。上の服なら貸してあげられるから」 有無を言わせないような口ぶりに、わたしは大人しく頷いて、清潔に保たれたシャワールームに入った。海の匂いがすっかり染み付いてしまったのか、脱いだ制服から仄かな潮の香りがした。 あたたかいシャワーを浴びながら、目の前の大きな鏡の中に映る自分を覗き込む。蒸気にあてられた半面世界のわたし。いつかの先生の言葉を思い出す。 「君は、本当に愛音にそっくりだ。その綺麗な顔も、少しだけ不安定な内面も、全部」 先生が用意してくれていたふかふかのバスタオルに包まれ、制服のスカートと少し大きめのパーカーに着替えたわたしは、先生を捜してリビングルームに向かった。されど予想に反して先生はおらず、言いようもない不安に駆られたわたしはどうしようもなく泣きたくなった。突然何かが消えてしまうことに、わたしたちはもうずっと怯えている。 辺りを見回して、ふと目に留まった先生の姿にわたしはあわててベランダに駆け出した。「せんせい、」と呟いたわたしの声は掠れていて、ベランダの柵に肘をついていた先生ははっと振り返り、「早かったね、ごめんね」と申し訳なさそうに笑った。吐き出された息と、先生の指の隙間に挟まれた煙草から燻る白い煙が夜の空に昇っていく。 「先生が煙草吸ってたの、知らなかった」 「うん。普段そんなに吸うわけじゃないからね。でもたまに寂しくなった時は、吸っちゃうんだよね。口が寂しがってるのかな」 「……先生はいま、寂しいんだね」 先生は何か言おうと口を開け、結局何も言わずに困ったように笑って、最後に一呼吸分吸ったあとすっかり短くなったそれを灰皿に押し付けた。冷えた風が襟を抜けて首筋を撫でる。枯らしたはずの涙の予感がした。 「あの日君が生徒としてぼくの前に現れたとき、本当は関わることさえ怖かったんだ。生徒としても一人の女の子としても、大切にしたい反面、そう思うことさえ怖かった。君は本当に、愛音によく似ていたから」 「先生……」 「たまに思うんだ。いつか繊細な君が心のバランスを取れなくなって、壊れてしまって、突然どこかに行ってしまうんじゃないかって。ぼくはそれが怖いよ」 「わたしは、お兄ちゃんとはちがうよ」 先生は泣きそうな顔で、それでも「そうだね」と笑った。息のしかたを忘れてしまったかのように、心が苦しかった。”愛音”と同じ瞳を、同じ苗字をしたわたしは、先生を苦しめてはいないだろうか。考えてもしかたのないことを、わたしはもうずっと繰り返している。 「先生――」 先生。先生はいまでも寂しいと思いますか? 先生。わたしは先生の心の隙間を埋めることができますか? 先生。わたしは先生の傍にいてもいいですか? 先生、先生、せんせい――。 初めてのキスは、煙草の味がした。 〇 ゜。 。 f r a g i l e こわれやすいものたち ×
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