死ぬなら戦場だと思っていた。それが夜兎族の指に雁字搦めにされた糸の先だと、私はついぞ疑わなかった。いったい誰がこんな結末を想像できただろうか。


 閉じた瞼が誰かの影を拾いあげた。暗い海の底に一筋の光が差すように、どこか懐かしい声が波紋のように広がって、私の瞼を持ちあげる。冷たい地面にすらりと伸びた影が、やがて私と目線を合わせるように小さくなって、かたどる表情を楽しむように笑った。
「やっ久し振り。こんな処で会うなんて驚いたなぁ。君いったいどんな悪いことしたの?」
「……神威? どうしてこんなところに」
「囚人達を見張れって幹部からのご命令。ここの囚人達は一筋縄じゃいかないらしいから、団長が交代して見張んなきゃいけないんだってさ。阿伏兎はどっか行っちゃったし、闘えもしない相手の見張りなんて、ホント面倒な話だよね。逃げた奴らを処理する係ならやってもいいけど」
 鉛色をした鉄格子を挟んだ向こうで、神威はぺらぺらとした薄べったい笑みを貼りつけて、まるい硝子鉢の中の金魚を眺めるように私を見据えた。変わらないなあって、なんだかおかしくなって、少しだけ笑った。その不変さが心地よいと思っているのに、胸を打つ懐かしさだとか、途方もない遣る瀬なさに似た気持ちが喉につっかえた岩のように、上手に息ができなくなる。

「君はどうしてここにいるの?」
「分からない」
「ふざけてる?」
「本当なんだよ。でも私処刑されるんだって」
「へえ、それは大変だ。日取りはいつ?」
「あした」
「そいつは驚いた。急いで香典用意しとかないと」
 かつて、死ぬのは怖いかと誰かは問うた。私は覚えている。怖くないよと答えた。
 夜兎の血に従って、たくさんの非日常さえも惰性に変えてしまった。その結果、目の前のこの男を始めとした夜兎族の強さを危惧した提督派になすりつけられた覚えのない罪は明日私の命を奪いにくる。それに抗う気はなかったし、自分のことながらに仕方ないとも思う。
「君、それでいいの? 無実なのに、嵌められて、無駄死していくなんてさ」
「いいのかな。よく分からない。でもここは所詮強者が物を言う処だからね。私の言うことなんて上は信じてくれないよ」
「まあ一理あるよね。でも残念だな。君のこと、結構気に入ってたのにさ」
 ありがとう、と吐き出したのは泡のような声だった。指先でそっと触れただけでぱちんと消えてしまいそうな脆くて小さなそれは、果たして彼の元へ辿りついたのかどうか。
 彼と出会ったのがいつであったかを私はもう思い出せない。ただその強さに惹かれていた。焦がれていた。その感情は出会った頃から呼吸するようにずっとそこにあって、同時に、彼と同じ血が流れている自分がとても怖ろしいものに思えた。
 サファイアブルーの瞳はあの頃からずっと変わらない。その目に宿る思いも、きっと。

 すっと立ち上がった彼を視線だけで追いかけると、こぼれ損ねた涙の粒が片方の目からすらりと筋を引いた。白い肌を飾る蒼い二つの目をすがめて、何も言わずに神威は背を向ける。それから二、三歩歩幅を刻んで、思い出したようにくるりと振り向いた。
「それじゃ、バイバイ」
 ひらひらと手を振る神威に笑顔を返すことはできても、さよならだけが、どうしても言えなかった。







「全く、ウチの団長さんの思いつきにはほとほと手を焼いちまうよ。頼めば何でもやってくれると思っちゃいやがる。それでもそれがどんな無茶でも従わなきゃなんねェのが部下の辛いところよ。おかげで徹夜どころか始末書までセットときた。世の中何でもセットだなんて、便利な時代だこりゃ」

『お帰り阿伏兎。早速だけど、明日までに第八師団のことを洗ってくれないかな。どうしても吐かない奴は俺に任せてくれたらいい。同族が減るのは嫌なんだろう?』

 いったい、私はどうして生きているのだろう。
 切り捨てられるはずの命がまだこの手にあった。理解が現実に追いつかない。枷を外され、困惑をあらわにする私の両の手首を取って、軽々と身体を持ち上げた阿伏兎さんの顔は、確かに疲労の色に覆われているようだった。
「同じ夜兎でも、どうやらお前さんは臆病兎らしい。ちったァその謙虚さをウチの団長さんにも分けて欲しいモンだ。ほらよ。これがお前さんを嵌めようとした奴らに関するリストだ。少し掘ってみれば出るわ出るわ。どうやら幹部クラスで夜兎を根こそぎ排除しようとしていたらしい。もっとも、誰かさんが調子に乗りすぎたせいでもうこの中の殆どは生きちゃいないがねぇ」
「あ……、ありがとうございます。幹部も、まさか自分達が団長に命令した囚人たちの見張りで秘密が白日の下に晒されるなんて思っていなかったでしょうね」
「囚人たちの見張りィ?何だいそりゃ。そんなちゃっちな仕事が団長様に回ってくるわけねえだろう。大体ウチの団長がそんな面倒な仕事を……」
 そこまで言って何かに気付いたのか、阿伏兎さんは大仰な動作で自分の頭を掻くと「これ以上言うのは野暮ってもんだ」と子どものように笑った。いたずらに弛んだ口元が言葉を重ねる。
「どうやらお前さん、大変な奴に気に入られちまったらしいねぇ」
 瞼がひくりと上下して、どうにも泣きそうだと主張する。私は涙をこらえながら、こらえることに意味なんてないと考えていた。落ちた雫がぷくりと膨れて波紋を立てる。
 暗い水の底に、もう私はいない。
 生きている。

「さて、ここからは選択肢だ。俺は前に腕を一本失くしてね。戦闘に支障なんてあっちゃいないが、ウチの団長の後始末とありゃあ腕が何本あったって足りない。どうせ俺達ァ、団長様に振り回される運命なんだ。なァお嬢さん。ここで会ったも何かの縁。どうせなら俺達の団で、ウチの団長のやらかした後始末、手伝ってくれないかねえ」
「……臆病者の兎でもできるでしょうか?」
「できるだろう。お前さんなら」



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